俳句
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黒松の威容を今に御所の冬
冬麗や高麗門の鋲さびて
城垣に燃えうつらむと櫨紅葉
紅葉狩ここより先は三の丸
二の丸の奥や小春の滝落し
城濠の松の影よりかいつぶり
時雨忌の遡りゆく舟ひとつ
飼鳥と日差をわかち冬暖か
神迎うす化粧して戀の巫女
風強き関八州の懸大根
冬麗や高麗門の鋲さびて
城垣に燃えうつらむと櫨紅葉
紅葉狩ここより先は三の丸
二の丸の奥や小春の滝落し
城濠の松の影よりかいつぶり
時雨忌の遡りゆく舟ひとつ
飼鳥と日差をわかち冬暖か
神迎うす化粧して戀の巫女
風強き関八州の懸大根
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ばせを忌や伊賀の干しそばみのゝ柿 梅室
「ホトトギス新歳時記」に、
陰暦十月十二日、俳諧の祖、松尾芭蕉の忌日。ちょうど時雨の季節であり、芭蕉の説いた閑寂、幽玄、枯淡の趣と時雨が通ずるところから時雨忌ともいう。正保元年(一六四四)伊賀上野に生まれ、元禄七年(一六九四)旅の途次大阪で没した。享年五十一歳。自らも翁といっていたところから翁忌ともいう。墓は大津の義仲寺にある。芭蕉生前の号をとって桃青忌ともいう。
とある。
芭蕉は江戸前期の俳人。日本近世文学の最盛期をなす元禄期(一六八八から一七〇四)を、井原西鶴、近松門左衛門、芭蕉と並んで、それぞれ小説、浄瑠璃、俳諧の分野を代表して、三大文豪と評価されている。
松尾与左衛門の子として生まれ、兄半左衛門のほかに、四人姉妹があり、家格は無足人であった。藤堂藩の侍大将であった藤堂新七郎良精の嗣子、良忠に子小姓として出仕、時に十九歳。良忠とともに貞門の北村季吟系の俳諧を学んだ。
延宝八年(一六八〇)、閑寂の地を求めて、江戸深川六間堀の魚商杉風の生簀の番小屋に移り、門下から一株の芭蕉を贈られて芭蕉庵とよび芭蕉翁と尊称された。
さて、東京都江東区の西部にある深川は、摂津の人深川八郎右衛門が開拓したといわれている。江戸時代には木材の集散地として深川木場が繁栄し、また永代寺、富岡八幡宮の門前町として成長した。埋立ての伸展に伴い岡場所も多くでき、また深川芸者はその方角により辰巳芸者ともよばれた。
荻江節に「深川八景」(明治九)があるが、江戸深川の名所、(永代橋の水鏡、永代寺の晩鐘、冬の木場、塩浜、仲町、州崎弁天、佃の雨、深川八幡宮)を近江八景になぞらえ、春夏秋冬の四季の景色の移り変わりを歌っている。前弾には「佃の合方」を取り入れ、深川の川端の描写を行い、全体に粋な雰囲気をかもし出した荻江節の代表曲である。
時雨忌や深川の灯のともりそめ 大堀 柊花
芭蕉忌(ばせをき)無足人(むそくにん)良精(よしきよ)仲町(なかちょう)
「ホトトギス新歳時記」に、
陰暦十月十二日、俳諧の祖、松尾芭蕉の忌日。ちょうど時雨の季節であり、芭蕉の説いた閑寂、幽玄、枯淡の趣と時雨が通ずるところから時雨忌ともいう。正保元年(一六四四)伊賀上野に生まれ、元禄七年(一六九四)旅の途次大阪で没した。享年五十一歳。自らも翁といっていたところから翁忌ともいう。墓は大津の義仲寺にある。芭蕉生前の号をとって桃青忌ともいう。
とある。
芭蕉は江戸前期の俳人。日本近世文学の最盛期をなす元禄期(一六八八から一七〇四)を、井原西鶴、近松門左衛門、芭蕉と並んで、それぞれ小説、浄瑠璃、俳諧の分野を代表して、三大文豪と評価されている。
松尾与左衛門の子として生まれ、兄半左衛門のほかに、四人姉妹があり、家格は無足人であった。藤堂藩の侍大将であった藤堂新七郎良精の嗣子、良忠に子小姓として出仕、時に十九歳。良忠とともに貞門の北村季吟系の俳諧を学んだ。
延宝八年(一六八〇)、閑寂の地を求めて、江戸深川六間堀の魚商杉風の生簀の番小屋に移り、門下から一株の芭蕉を贈られて芭蕉庵とよび芭蕉翁と尊称された。
さて、東京都江東区の西部にある深川は、摂津の人深川八郎右衛門が開拓したといわれている。江戸時代には木材の集散地として深川木場が繁栄し、また永代寺、富岡八幡宮の門前町として成長した。埋立ての伸展に伴い岡場所も多くでき、また深川芸者はその方角により辰巳芸者ともよばれた。
荻江節に「深川八景」(明治九)があるが、江戸深川の名所、(永代橋の水鏡、永代寺の晩鐘、冬の木場、塩浜、仲町、州崎弁天、佃の雨、深川八幡宮)を近江八景になぞらえ、春夏秋冬の四季の景色の移り変わりを歌っている。前弾には「佃の合方」を取り入れ、深川の川端の描写を行い、全体に粋な雰囲気をかもし出した荻江節の代表曲である。
時雨忌や深川の灯のともりそめ 大堀 柊花
芭蕉忌(ばせをき)無足人(むそくにん)良精(よしきよ)仲町(なかちょう)
菊月といふもゆかしき浅草寺
胸に抱く供養の菊に冷えすこし
暗がりにみ仏おはす菊供養
燈籠を邪鬼の捧ぐる菊供養
菊の塵畳にこぼれ菊供養
金龍の舞じぐざくに秋高し
椎の実のはらりと涙ほどこぼれ
契りには浅きと深き菊枕
朝寒や動かぬものに茜雲
支へ木を一つふやして冬支度
胸に抱く供養の菊に冷えすこし
暗がりにみ仏おはす菊供養
燈籠を邪鬼の捧ぐる菊供養
菊の塵畳にこぼれ菊供養
金龍の舞じぐざくに秋高し
椎の実のはらりと涙ほどこぼれ
契りには浅きと深き菊枕
朝寒や動かぬものに茜雲
支へ木を一つふやして冬支度
人稀に月光をくる菊供養 大野林火
「ホトトギス新歳時記」に、
陰暦九月九日重陽の日に、浅草観音堂で大僧正以下、菊花の供養をする。参詣人は携えた菊の花を供え、その供養した菊を取りかえて帰り、諸病災難よけとする。現在は十月十八日に行われている。
とある。
陰暦九月の異名を「菊月」といい、九月九日を「菊の節供」とか「重陽の節供」という。中国では陽の極数である九が重なる日を「重陽」とか「重九」とよんでめでたい日とした。そして、この日「登高」といって丘に登り、野外で菊花酒を飲み、女は呉茱萸を身につけて邪気を払い、災厄を逃れるという習慣があった。この風習は、奈良時代の末から平安時代の初めに菊花とともに中国から日本に伝わり、「菊花の宴」「菊花の杯」の宮廷行事として残された。平安文学には、九月九日に前夜菊の花にかぶせておいた真綿をとり、その香と露を移した綿で身をなでれば長寿を保つという「菊の着せ綿」なども描かれている。また江戸時代になると重陽が五節供の一つとなり、この日諸大名は、菊花を添えた献上品を将軍に貢じ、江戸の浅草寺観音堂では菊供養が行われた。
さて、能に「菊慈童」がある。魏の文帝の臣下(ワキ)が、「酈県山の麓から薬の水が湧き出た。水上を見て参れ」との勅命を受け、山中に分け入り、慈童(シテ)に出会う。「何者か」と問われて「自分は周の穆王に仕えた侍童のなれのはてだ」という慈童の答えに、勅使が「七百年も昔の人間とは、妖怪変化か」と怪しむ。そのとき慈童は、穆王から賜った枕に記された偈の妙文を写した菊の葉におりた露の滴りが不老不死の薬となり、七百歳もの長寿を保つことになったということに初めて気づき、喜びの舞楽を舞う。そして、酈県の山の水は菊水の流れ、その泉はもともと酒なのだからと、勅使たちにもすすめ、自らも飲み、一旦は菊の花を折り敷いて寝るが、やがて覚め、七百歳の寿命を文帝に捧げて、仙家へ入って行く。
金堂の暗がりに待ち菊供養 大堀柊花
菊供養(きくくよう)重久(ちょうきゅう)呉茱萸(ごしゅゆ)杯(さかずき)
菊慈童(きくじどう)酈県山(てっけんざん)水上(みなかみ)穆王(ぼくおう)
「ホトトギス新歳時記」に、
陰暦九月九日重陽の日に、浅草観音堂で大僧正以下、菊花の供養をする。参詣人は携えた菊の花を供え、その供養した菊を取りかえて帰り、諸病災難よけとする。現在は十月十八日に行われている。
とある。
陰暦九月の異名を「菊月」といい、九月九日を「菊の節供」とか「重陽の節供」という。中国では陽の極数である九が重なる日を「重陽」とか「重九」とよんでめでたい日とした。そして、この日「登高」といって丘に登り、野外で菊花酒を飲み、女は呉茱萸を身につけて邪気を払い、災厄を逃れるという習慣があった。この風習は、奈良時代の末から平安時代の初めに菊花とともに中国から日本に伝わり、「菊花の宴」「菊花の杯」の宮廷行事として残された。平安文学には、九月九日に前夜菊の花にかぶせておいた真綿をとり、その香と露を移した綿で身をなでれば長寿を保つという「菊の着せ綿」なども描かれている。また江戸時代になると重陽が五節供の一つとなり、この日諸大名は、菊花を添えた献上品を将軍に貢じ、江戸の浅草寺観音堂では菊供養が行われた。
さて、能に「菊慈童」がある。魏の文帝の臣下(ワキ)が、「酈県山の麓から薬の水が湧き出た。水上を見て参れ」との勅命を受け、山中に分け入り、慈童(シテ)に出会う。「何者か」と問われて「自分は周の穆王に仕えた侍童のなれのはてだ」という慈童の答えに、勅使が「七百年も昔の人間とは、妖怪変化か」と怪しむ。そのとき慈童は、穆王から賜った枕に記された偈の妙文を写した菊の葉におりた露の滴りが不老不死の薬となり、七百歳もの長寿を保つことになったということに初めて気づき、喜びの舞楽を舞う。そして、酈県の山の水は菊水の流れ、その泉はもともと酒なのだからと、勅使たちにもすすめ、自らも飲み、一旦は菊の花を折り敷いて寝るが、やがて覚め、七百歳の寿命を文帝に捧げて、仙家へ入って行く。
金堂の暗がりに待ち菊供養 大堀柊花
菊供養(きくくよう)重久(ちょうきゅう)呉茱萸(ごしゅゆ)杯(さかずき)
菊慈童(きくじどう)酈県山(てっけんざん)水上(みなかみ)穆王(ぼくおう)
雲ひとつなき青空と秋の川
猪牙舟の過ぎしはむかし水澄めり
松手入れ終へし中川船番所
船番所通行手形秋灯下
釣竿に江戸の華やぎ火恋し
落飾の姫のおもかげ白式部
きぬかつぎ姫といふあり衣被
蕎麦咲いて月の信濃の白浄土
叶はざることは来世で夕月夜
大方は素通りの径ゑのこ草
猪牙舟の過ぎしはむかし水澄めり
松手入れ終へし中川船番所
船番所通行手形秋灯下
釣竿に江戸の華やぎ火恋し
落飾の姫のおもかげ白式部
きぬかつぎ姫といふあり衣被
蕎麦咲いて月の信濃の白浄土
叶はざることは来世で夕月夜
大方は素通りの径ゑのこ草