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そそり立つ相撲の櫓秋高し
木犀の香をふんぷんと国技館
犬枇杷の紅ほんのりと秋の昼
秋水に水輪をいくつあめんぼう
潮入りの影ほれぼれと鷺の秋
庭園の奥の奥なる石榴実に
つくばひに秋冷いたる心字亭
みたらしに水なき秋の旱かな
色変へぬ松に習へと去来の忌
古酒の壺ところを得たる書架の上
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    去来忌

    嵯峨山や去来の忌日人知らず  松瀬青々

   「俳諧歳時記」に、
   去来は向井氏。名は元淵。諱は兼時。通称平次郎、又治郎太夫。肥後長崎の人。万治元年父に従て京に出で武を業とし、嵯峨の小倉山の麓に別墅を結びて落柿舎とす。後此舎を毀ち、鴨東聖護院村に家を営み、爰に妾を置きて一女を生めりと伝ふ。其性篤実。其句温籍にして実に関西に於ける蕉門の重鎮なりき。宝永元年九月十日没。享年五十三。洛東真如堂後山の墓地に葬る。
  とある。
   貞享一年(一六八四)以降、芭蕉に師事して俳諧に専念し、翌年には嵯峨落柿舎に隠棲、蕉門の代表的選集となった「猿蓑」編纂の任を与えられるなど、芭蕉の信頼厚く、関西の俳諧奉行と称されるほどであった。芭蕉没後は、浪化、風国、卯七ら門友間に忠実な師風を伝えることに努め、「去来文」「旅寝論」などの俳論書を著し、また同門高弟連の邪道に走るを戒めるべく許六と論争(俳諧問答)を重ねたりした。


   さて、去来といえば俳諧論書「去来抄」(宝永一)がある。
   「先師評」「同門評」「故実」「修業教」の四編からなり、全二編は去来自筆本、他は写本によって伝わる。内容は、去来がおりに触れて師芭蕉から聞いた句評の詞などを中心に、蕉門の高弟たちとたたかわせた作句論など、蕉風俳諧の理念・手法や表現意識にもわたっている。
   「先師評」のなかの「いひおほせて何かある」をあげてみる。
   「下臥しにつかみ分けばやいとざくら」先師路上にて語りて曰く「この頃、其角が集にこの句あり。いかに思ひてか入集しけん」去来曰く「糸桜の十分に咲きたる形容、よくいひおほせたるに侍らずや」先師曰く「いひおほせて何かある」ここにおいて肝に銘ずる事あり。初めて発句になるべき事と、なるまじき事を知れり。

    月影は藪の奥まで去来の忌  大堀柊花

  去来文(きょらいぶみ)詞(ことば)下臥し(したぶし)入集(にっしふ)
花蘆の風を恋ふかに揺れ初むる
水に沿ひゆけばすなはち萩の寺
萩叢のここにかしこに龍眼寺
愛らしくこぼれ咲きして萩の花
小綺麗な地蔵堂あり椿実に
解け初めし薄を配し砂の庭
鳥威し吊つて見事な鯉の池
新しきタワーの空に百日紅
もろこしを焼いて隠れもなき庵
天草に隠れ墓あり穴まどひ
 玉蜀黍

  唐黍やほどろと枯るる日のにほひ   芥川龍之介

 「俳諧歳時記」に
 玉蜀黍の稈は太く、五六尺に達し、円柱状にして処々に節ありて葉を互生す。葉は
大なる線状被針形にして並行脈を有す。雄花は二個づつ相集りて螽花をなし、稈の頂端に円錐花序に排列し、雌花より成れる小穂状花序は、葉腋より生じたる多肉の花軸に密生して肉穂花序をなし、大形の苞につつまれ、長き毛状の花柱をふさふさと苞の外に出すこと此黍の風致なり。大小豆の如き黄色の果実、累々として花軸上に縦に並びて集り着く。
  とある。
   トウモロコシの起源は古く、考古学的資料によれば、野生祖先種は少なくとも紀元前五000年ころにはメキシコに分布していた。ヨーロッパへの導入は、新大陸発見時にキューバからスペインに持ち帰ったのが最初である。アジアへは十六世紀の初めポルトガル人によって入り、インドからチベット経由で中国に入った。日本へは天正七年(一五七九)にポルトガル人が長崎に入れたのが最初であるが、明治初年にアメリカから北海道に入り、北海道で盛んに栽培された。
 アンデス高地のケチユア族の民話に、昔、コンドルに案内されて天に昇ったキツネが、まだ地上にないトウモロコシなどの食物を食べて満腹になり、綱を伝って地上へ降りる途中、インコの群れをののしったため綱を切られて地上に墜落した。そのとき破裂したキツネの体から作物が飛び散り、以後それらが地上で生えるようになったという。

   さて、ある落雷の多かった年に、葛飾方面に大きな雷が落ち、家も畑も損害をうけた。ところがたまたま赤色の玉蜀黍をつるしてあった家だけが、落雷を除けることができたという。さっそくこれを商いにすべく、浅草観音四万六千日で賑わう境内にて売りさばくと、たちまち売れてしまった。その後、他の土地の人びとも赤色の玉蜀黍を競って栽培し、商いをするようになったのが市の人気をあおった。酸漿もそのひとつで、酸漿市となるまでには時代がだいぶのちの幕末となる。

    吹かるるは玉蜀黍の赤毛かな  大堀柊花

  玉蜀黍(たうもろこし) 稈(かん)螽花(しゅうか)苞(ほう)
八月の月落ちかかるビルの肩
子雀の大きくなりぬ終戦日
朱のタワーうしろに見えて施餓鬼寺
底紅のまた新しき今朝の色
稚児笹の爪先立ちも秋涼し
習ふこと怠り硯洗ひけり
梶の葉の筆をまたもやあやまちて
鴨居あることの親しき秋の宿
三重の塔を遠目に墓洗ふ
死してなほ翅美しき小鳥かな
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