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       橡の花

    栃咲くやまぬがれ難き女の身  石田 波郷

   「和漢三才図会」に、
   四、五月に栗の花のような黄色い花を開く。実を結ぶが茘枝の核のようで尖りがある。蔕に斗があって実の半ばを包んでいる。山に住む人は、飢饉の歳に拾い集めて飯にする。あるいは擣き浸して、粉を取って食べる。木の高さは二、三丈。堅実で重く、班文の点々がある。大きなものは柱や棟の材に用いるとよい。小さいものは薪や炭にする。実の殻は煮て汁を出し、それで皂の染料にする。嫩葉は煎じて茶の代りに飲むとよい。
  とある。
   トチノキ科の落葉高木。高さ三〇メートル、径一メートル以上になる。初夏、円錐花序をつくり、両性または雄性の花をつける。両性花は雄しべ七本、雌しべ一本。雄性花では雌しべは退化している。萼は鐘状で不規則に五烈し、花弁は四枚で微紅白色、やや不同形で雄しべより著しく短い。

   さて、随筆に「トチの花の咲くころ」(岡田喜秋)がある。
   全国で数少ない樹の名と同じ栃木県所在地である宇都宮の町での印象を語りたい季節になった。なぜなら、県庁前の通りにはトチノキの並木があって、ちょうど花をつけていたからだ。・しばらく見ほれていたのも、トチノキは大樹には珍しく淡いピンク色の首飾りのような花の穂を立たせて、枝全体の咲くので、遠くからも人目をひくのである。
   ロンドンへ行ったとき、意外なことを聞いた。トチの花見をするという。そのとき、トチノキのことをホース・チェストナットと呼んでいることを知った。馬の食べるクリか?といぶかった。イギリスといえば、馬を珍重する国柄で、競馬の発祥地である。馬の好物かと思ったら、「いや、馬はトチの実を食べない」という答えが戻ってきた。そして言った。「チェストナット・サンデーがある」それは日本でいう花見を楽しむ春の日曜日のことであった。家族づれでトチの花盛りを見に行くのである。

   裁判所あたりを暗く栃の花  大堀 柊花

橡の花(とちのはな)茘枝(れいし)擣き(つき)皂(くろ)萼(がく)
斗(ひしゃく)
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川ひとつ越えて千本桜見に
千本の土手の桜と人の数
遠目にも鷺の漁れる初桜
おほどかに水流れゆき蘆芽ぐむ
千本の桜を土手にあばれ川
千本の朝な夕なの桜かな
聖橋渡りて森へ孔子祭
心なほ定まらずして忘れ霜
かばかりの水に生まれて蛙の子
春闌けて志すことなほありぬ

       釈奠

    釈奠や誰が注古りし手沢本  日野 草城

   「年中行事辞典」に、
   春・秋に孔子をまつる行事。陰暦二月・八月の上の丁の日に行う。釈奠とは、釈もも奠も「置く」という意味の字で、供え物を神前にささげ置くことをいう。すなわち先聖先師の祭の総称、またはその祭の仕方をいった語であるが、後漢の世に民帝が孔子の宅を訪れて、孔子と七十二弟子を祭って以来、孔子を祭る大典を釈奠(釈典)というようになった。釈奠は、うきくさ・しろよもぎなどの植物を供えたから、釈菜とも呼ばれる。わが国では文武天皇が大宝元年二月大学寮に幸して、初めて釈奠を行われた。宮中では大学寮に孔子と顔淵はじめ十哲の肖像をかけて博士たちが講義を行い、担当の公卿以下が拝を行い、宴を設けて、席上経義を論議し詩を講じた。
  とある。
   この行事は皇室の衰微とともにすたれ、室町ごろは胙(ひもろぎ)を奉ることも行われなくなった。江戸時代初期には佐賀県多久市の孔子廟のみが釈奠を行っていたが、維新後廃絶した。その後これを復興し、湯島聖廟で行うようになり、明治後も行われたが、現在は盛んでない。多久の釈奠は四月十日・十月十四日で、式典は孔子に十哲を配祀し、祭文をよみ、献詩を朗誦し、奏楽・礼拝など、最古式をもって行われる。
  

  さて、孔子は中国古代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。孔子の「子」は尊称。魯の国(山東省)の人。魯の下級武士叔梁紇と、その内縁の妻徴在との間に生まれた。父は大力で斉との戦闘で武勲をあげている。孔子三歳のとき父が没し、倉庫番や牧場の飼育係をしながら学問に励んだので定まった師匠はない。当時の天下は下剋上の風が瀰漫していた。
   五十四歳、魯の大司寇(司法大臣)となるが、自分の理想の政治を実施してくれる君主にはめぐり合えなかった。以後は政界に望みを絶ち、弟子の教育に専念する。弟子の数三千人。うち「六芸」(礼、楽、射、御、書、数)に通じたもの七十二人。
   孔子は六芸のすべてにかかわったとされる。孔子の死後、その弟子または再伝の弟子が孔子の言行録を編んだ。「論語」二十篇がそれで、孔子の思想を知るための唯一の信用すべき資料である。

   釈奠の磴にこぼるる鳥の声  大堀 柊花
猪牙舟は櫂を寝かせて春浅し
どぶ板のことこと鳴りて春の昼
恋猫の声のしさうな路地のうち
お邪魔しますと入りたる春障子
所在なく灰を均して春火桶
誰もゐぬお休み処花いまだ
材木の並ぶ街並み春動く
蛇穴を出て秋成の世なりけり
逢ふたびに心ときめき水温む
草の芽の命わが身の命かな


       蛇穴を出づ

    蛇穴を出て見れば周の天下なり  高濱 虚子

   「ホトトギス新歳時記」に、
   冬の間、土の中に眠っていた蛇も春暖とともに穴を出て姿を現す。蛇は気味の悪いものだが、穴を出たばかりの蛇をちょっと見かけるのはそう悪いものではない。
  とある。
   ヘビのように人間と特殊な関係をもっている動物は少ない。日本でも古代から、山の神、水の神、雷神としてのヘビの信仰が伝えられており、記紀には八岐大蛇についての物語や、大和の御諸山の祭神大物主命が蛇体であったことが記されている。
   「倭名鈔」に、ヘミ、クチナハ、ヲロチ、カラスへミ、ニシキへミなどの異名が掲げられているように、古くはヘミとよばれた。
   ヘビについての昔話や伝説は全国各地に語られている。昔話には、ヘビが人間の婿あるいは女房の姿となって結婚し、最後に幸福に終るという「蛇婿入り」「蛇女房」などがあり、和歌山県の道成寺縁起として知られる「安珍清姫」のように、人が執念のあげく蛇体になるという伝説もある。

   さて、随筆に「幽草」(長谷川時雨)がある。
   母は大変な蛇ぎらいだった。先日も、母が御飯を食べてゐる前で話をしてゐると、給仕の少女がアッと叫んだ。叫ばなければ気がつかなかったのであらうに、見ると庭前を、軒の楓からおちた小蛇が紫陽花の葉かげに隠れ込むところであった。母は大騒ぎで男たちの名を呼んだが、誰も答へるものがなかったので、私に細いステッキを渡した。好い気持ではなかったが、母の気持ちをやすめるため、下におりた私は、冷汗を掻き、舌がすっぱかった。紫陽花の葉をわけて見ると、小蛇は此方から向うの枝へ渡ってゐたが、するするといかにも柔かく自然に、なんの苦渋もなしにー蛇といふ生物が逃げようとして自分の体をひきずるのだといふふうには、とても思へないように、尾の方が向うの枝へ移って巻付いた。その微妙さー桶の中で洗ってゐる素麺が指の間を辷って行くようなーそんなものではなかった。生きてゐて、しかもなめらかに、寧ろ音楽的にとも言へる気がした。

   蛇穴を出てまぎれなき女人かな  大堀 柊花
  
  八岐大蛇(やまたのおろち)御諸(みもろ)大物主命(おおものぬしのみこと
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