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     二三歩をあるき羽搏てば天の鶴     野見山朱鳥
     
   「和漢三才図会」に、
   鶴の形状は鵠より大きく長さは三尺余、喙の長さ四寸、丹頂、赤目、赤頬、青脚、長く伸びた頸、凋んだ尾、粗い膝、繊い指、白い羽、黒い翎を持っている。また灰色や蒼色のものもある。夜半に鳴き、声は雲霄にまで達する。雄は上風に鳴き雌は下風に鳴き、声を交えて孕む。また蛇虺をたべる。降真香(香木)の烟を嗅ぐと降りてくる。その糞は石に化する。鶴は羽族の本元であり仙人の驥である。
  とある。
   鶴は鳥鋼ツル目ツル科に属する鳥の総称。南アメリカ、極地、大洋島を除く全世界に分布する。古来、カメとともに長寿とされるが、鳥類は飼育下でも百年以上生きることはなく、ツルの寿命も二十~三十年ほどと思われる。
   「万葉集」から「ほととぎす」「雁」「鶯」などに次いで数多く詠まれているが、日常語の「つる」に対して、歌語としては「たづ」が用いられていた。平安時代に入り、
「つる」も和歌に用いられるようになり、また瑞鳥として賀の歌に多くみられ、「千代」「千歳」の長寿があると意識されて「松」や「亀」とともに詠まれた。「古今集」に「鶴亀も千歳の後は知らなくに 飽かぬ心にまかせはててむ」(賀・素性法師)などとある。

   さて、「源氏物語」「若菜上」の、二条院での祝宴に、
   夜になって、楽人たちが退出します。紫の上付きの別当たちが、下役たちを引き連れてきて、禄の入った唐櫃の側に寄って、中から一つずつ禄を取り出して次々にお与えになります。いただいた白い衣装などを肩にかけて、築山のわきから池の堤を通り過ぎる光景を遠目に見ますと、千年の寿命を持って遊びあうあの催馬楽の鶴の白い毛衣にも見違えそうです。(瀬戸内寂聴訳)
   禄は祝儀。催馬楽は古代歌謡。催馬楽の鶴は、「席田の席田の伊津貫川に住む鶴の 千歳をかねてぞ遊びあへる千歳をかねてぞ遊びあへる」による。

    夕鶴の影藁塚の影八代村  大堀柊花

  鵠(くぐい)喙(くちばし)頸(くび)繊い(ほそい)翎(はね)雲霄(そら)虺(まむし)驥(のりもの)別当(べっとう)禄(ろく)催馬楽(さいばら)席田(むしろだ)伊津貫(いつぬき)素性(そせい)      

  
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木場といふなつかしき町冬紅葉
たまゆらの日差に鳴いて冬の鳥
濃紅葉の散るをこらへてゐるらしき
われ先といふにはあらず散紅葉
桜もみぢ空の青さになじまざり
森の木を睥睨のさま櫨紅葉
紅葉して炎のさまのははき草
からたちの棘をあらはに時雨月
凛々と冬芽犇めき波郷の忌
平明な言の葉よけれ達磨の忌

   達磨忌や寒うなりたる膝がしら  白雄

   「ホトトギス新歳時記」に、
   陰暦十月五日、菩提達磨の忌日である。禅宗の寺院では法会が行われる。達磨は南
   インド香至国第三王子として生まれ仏法を修得し、中国に禅宗を伝えて始祖といわ
   れ、梁の大通二年(五二八)のこの日入寂したと伝えられる。中国少林寺にあって、壁に向かって九年間座し、悟りをひらいたというので名高い。
   とある。
    達磨の生没年は不詳。六世紀の初め、西域より華北に渡来し、洛陽を中心に活動した。唐代中期、円覚大師と諡される。従来、十一世紀にまとめられた伝承説話以外、伝記も思想も不明であったが、二十世紀に入って敦煌で発見された語録によって、壁観とよばれる独自の禅法と、弟子たちとの問答が確認され、その実像が明らかとなる。同時代の仏教が煩瑣な哲学体系に傾くなかで、壁が何ものも寄せつけぬように、本来清浄な自生に目覚め、ずばり成仏せよと説く。平易な口語の宗教運動家であった。

    さて、達磨大師の座禅姿をうつした縁起物玩具の達磨は赤塗りで、座におもりをつけ、倒してもすぐ立つようにつくった張り子製の起きあがり物。室町時代には、起きあがり達磨の祖型である起きあがり小法師がまずつくられた。張り子製の起きあがり達磨が登場してきたのは、起きあがり小法師玩具が上方から江戸に伝えられてからのちで、享保年間(一七一六~三六)以降のことらしい。江戸では七福神などの起きあがり人形もつくられたが、達磨の形をしたものがもっとも人気を集めて一般に張り子製の達磨のことを「起きあがり」とよぶようになった。ことに養蚕が盛んな関東地方では、蚕の上簇にちなんで、起きあがり達磨が縁起物に求められた。また達磨の赤衣に模した赤塗りの達磨玩具が、疱瘡除けに病児の枕元に飾られたりした。疱瘡が赤色を嫌うという俗信からである。

    髭といふ男のおしゃれ達磨の忌  柊花

   達磨忌(だるまき)諡(おくりな)敦煌(とんこう)小法師(こぼし)
   疱瘡(ほうそう)上簇(あがり)
龍神のおどろくほどに水澄めり
深川の木遣どよもす菊日和
横綱の碑へぎんなんの大飛礫
深川は気のおけぬ町とろろ汁
暗き灯を二間通してとろろ汁
平蔵の寄りさうな店とろろ汁
秋晴や 船番所まで水に添ひ
渡し待つ矢切の野菊日和かな
嬉しさのつい声に出て湿地飯
稲雀逃げてそれほど憎からず
    野菊

    其人を恋ひつつ行けば野菊濃し  高濱虚子

   「栞草」に、
   野原に自然と生ずる菊を云也。花・葉ともに菊に似て小也。褐紫の花多し。稀に黄色ありとぞ。是上古より本邦にある菊也。小毒あり、食ふべからずと云へり。今人、家に植て翫ぶものは唐土より来る。上古は野菊の外なし。
  とある。
   野菊は特定の種を示すのではなく、キク科のノコンギク、ヤマシロギク、イナカギクなどのシオン属、ヨメナやユウガギクのヨメナ属、ミヤマヨメナ属などの一般的通称。夏から秋に開花し、頭花がキク属に似て、山野にみられるので野菊という。
   伊藤左千夫の「野菊の墓」は、舞台が千葉県矢切で、墓地などに生える点を考えると、カントウヨメナである可能性が高い。
   ヨメナはオハギの名で、「出雲国風土記」、ウハギで「万葉集」に載る。野菊の名は茶会の記録に早く登場するし、「天王寺屋会記 宗達茶湯日記 自会記」に、野菊を使ったと書かれている。千利休も野菊に注目し、秀吉が聚楽の茶会を開いたおり、野菊一枝を天目茶碗と鴨肩衝茶入との間に挟み、効果的に演出した。

   さて、伊藤左千夫の処女小説に「野菊の墓」がある。明治三十九年の「ホトトギス」に発表。
   千葉県の田舎の旧家に生まれ、小学校を出たばかりの政夫は、家事の手伝いに来た、二つ年上の民子という従妹とむつまじく遊んでいるうちに、周囲の者にあらぬうわさを立てられ、母からも注意せられて、かえって恋心を催すようになる。周囲の無理解から清純な恋が妨げられ、民子は嫁いで亡くなり、政夫は少女の愛していた野菊をその墓の周囲に植える。素朴な田園を背景にした牧歌的な純愛物語。
   この小説は木下恵介監督により「野菊の如き君なりき」の題名で映画化された。   左千夫の歌に「秋草のいづれはあれど露霜に 痩せし野菊の花をあはれむ」がある。

    一茎の野菊流るる矢切かな  大堀柊花
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