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    馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺  水原秋櫻子

   「俳諧歳時記」に、
   常緑潅木で、ちょっと楊梅の木の感じがある。葉は椎の葉に似てやや細長く、葉のへりに小さな鋸歯がある。十一月頃からもう花ごしらへを始め、仲春・晩春・初夏にかけて、小さな壺の恰好をした白い花穂を垂れる。地味な風雅な花で、近くによると香がする。山野に多く見受けられるが、寺社・庭園・料亭などに観賞用としても植ゑられる。元来馬酔木は有毒植物で、葉は煎じて駆虫剤等に用ひられる。馬酔木といふ名は、馬が食べると昏睡するといふところから来てゐる。
  とある。
   ツツジ科の常緑低木。アシビ、アセボともいう。「万葉集」に十首詠まれているが、その多くが野外に生えたアセビのことで、当時はまだ庭の花ではなかった。大伴家持の「池水に影さへ見えて咲きにほふあしびの花を袖に扱入れな」など「万葉集」の
安之婢に馬酔木の字をあてるのは、馬がこの葉を食べると足がしびれて動けなくなるためで、アシビおよびアセビは足しびれの意味だといわれている。おそらく大陸から馬を伴った帰化人が、アセビの有毒性に無知であったため、この葉を馬に食べさせてこの難にあい、命名したのであろう。

 さて、随筆に「あしびの花」(土田杏村)がある。
 馬酔木の花を見ると、大抵の人が少しさびし過ぎると考へるであろう。その色つやも大して立派だとは言ふまい。けれどもそれは馬酔木の古木が本当に咲き盛ってゐるところを見てゐないのである。一丈以上にも伸びた古木が山一面にさき続いてゐるところ、それは実際何とも言へないはでやかなもので、だれでもちょっと、この花叢を馬酔木だとは信じまい。馬酔木の花の美しいのは奈良である。私はこの春用事があって幾度となく奈良へ出かけたが、一箇月の余少しの衰へをも見せないで咲き盛ってゐる馬酔木の花を見ることは、その間の一つの楽しみであった。

 花房は涙つぼかも花馬酔木  大堀 柊花

馬酔木の花(あしびのはな)楊梅(やまもも)大伴家持(おおとものやかもち)
扱入(こき)安之婢(あしび) 
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昃れば愁ひの色に初桜
小彼岸の一輪がほど蘆花旧居
山茱萸の黄を鏤めて青き空
冴返る蘆花の旧居の長廊下
切株のまだ萩根分せぬらしき
花こぶし天使の羽に似て非なり
繙きし絵巻のやうな春の山
近づきていよいよ赤き木瓜の花
嘴をこぼれやすくて春の土
鳥雲にわが淋しさを人知らず
    あち歩きこち歩きして萩根分  高濱 虚子

   「ホトトギス新歳時記」に、
   春になって萩の芽が出ると、古株を掘り起こして、根分けし、移植する。木の勢いを強め、また株を殖やすためである。
  とある。
   「秋萩」とよばれるように、秋の代表的な景物として、早く「万葉集」から歌に数多く詠まれ、秋の七草の一つである。「さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に 玉と見るまで置ける白露」(巻八・大伴家持)、「雁は来ぬ萩は散りぬとさを鹿の 鳴くなる声もうらぶれにけり」(巻十)というように、「鹿」「雁」「露」とともに詠まれることが多い。「古今集」でも「万葉集」以来の類型が固定し、また、「宮城野のもとあらの小萩露を重み                       風を待つごと君をこそ待て」(恋四・よみ人しらず)により、「宮城野」の景物となり、「源氏物語」「桐壺」の「小萩がもと」の段などにみられる。

   さて、狂言に「萩大名」がある。
   遊山を思い立った大名(シテ)に、太郎冠者は知人の庭の萩見物を勧める。その庭では客が和歌を詠むことが例になっている。そこで冠者は、無風流な大名に、聞き覚えの「七重八重九重とこそ思ひしに十重咲き出づる萩の花かな」という歌を教えようとする。しかし大名が覚えられないというので、「七重八重・・・」の部分は扇の骨の本数で示し、末句の「萩の花かな」は臑脛を示して合図することに決めて出かける。ところが、庭に着いた大名は梅の木や庭石を見て失言を重ねたうえに、いざ和歌を詠む段になって「七本八本」などと間違える始末。あきれた冠者が姿を隠してしまうと、慌てた大名は末句が思い出せず、苦しまぎれに「太郎冠者が向う脛」と答えて面目を失う。

   北條の寺の白萩根分かな  大堀 柊花

  萩根分(はぎねわけ)大友家持(おおとものやかもち)宮城野みやぎの)
  萩大名(はぎだいみょう)臑脛(すねはぎ)



絨毯の紅きにこぼれ鬼の豆
水菜引くなほ覚めやらぬ東山
水音に紅殻ぬいで猫柳
かたかごは恥らふ花か俯きて
瞬けばまたたき返し犬ふぐり
独り居の部屋に鍵かけ桜草
彫像のまなこ虚ろにヒヤシンス
おいらくの眩しきバレンタインの日
筆硯をかたへに書かず兼好忌
早春の恋めくものに鳥けもの
盆梅の蕾ふくらむ巫女溜り
    送らるゝ節分の夜のよき車  星野 立子

  「栞草」に、
  凡そ節分は立春の前日にあり。年内節分あるときは、禁裡熬豆を殿中に撒せられて疫鬼を逐ふ。今夜、大豆を撒くを拍といふ。同夜、家々の門戸に鰯の頭、狗骨の条を挿む。
 とある。
  また「俳諧歳時記」に、
  立春の前夜のことで、大寒より十五日目、大低陽暦の二月三・四日頃に当る。この夜神社、寺院などでは追儺の式を行ひ、民間でも豆を撒く習慣がある。
 とある。
  節分は季節の変り目。立春・立夏・立秋・立冬の前日。とくに立春の前日が重んじられている。現行暦では二月三日または四日。節分は太陽の運行を基準にして設けられているから、旧暦の時代には期日が一定せず、大晦日より前になることがあり、「年の内に春は来にけり」という場面があった。そのため節分行事のなかには、正月行事から移行
 したり混同したりしたものもある。追儺は節分行事として著名であるが、これが節分に
 行われるようになったのは室町時代以後のことで、鎌倉時代末ごろまでは宮中の追儺行事は大晦日に行われていた。

  さて、狂言に「節分」がある。夫が出雲大社へ年籠りに行った留守を守っている妻の
 ところへ、蓬莱の島の鬼が、節分の豆を拾って食べようと日本へやってくる。この家の灯を頼って案内を請い、荒麦を与えられるが、見れば美しい女房である。心を奪われ、なんとか気に入られようと、蓬莱にはやる小歌を次々に謡って慕い寄るが、女が受け付けないので、ついに泣き出してしまう。そこで女は心を和らげたふりをして、鬼の宝で
 ある隠れ蓑と隠れ笠を取り上げてから家へ入れると、さて時分もよし、「鬼は外へ」と豆を鬼にぶっつけて追い立てていく。鬼が純情な男性のような恋情を示すのが漫画的で、鬼の謡う豊富な民衆流行歌謡も楽しい。

  節分の日差しを揺らし寺の鳩  大堀 柊花

 節分(せつぶん)熬豆(いりまめ)疫鬼(えきき)拍(はやす)狗骨(ひひらぎ)
 頭(かしら)条(えだ)挿む(はさむ
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