俳句
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熊谷草
熊谷草を見せよと仰せありしとか 高濱虚子
「俳諧歳時記」に
近頃は観賞用として盛んに栽培され、早いのは三月の初めから、ヒヤシンスなどと
共に花卉店の店頭に現れるが、これは純粋の日本種であって、叡山や、高野山や、其
の他筑波山にでも榛名山にでも自生している。陰湿な樹下を好むようである。花は大
形で、淡黄緑色に暗紫色の斑点があり、口を開いて舌を出してゐるやうな格好をして
ゐる。それが如何にも熊谷直実が市の谷の海岸で扇をあげて、海中の敦盛を呼び戻し
ている図を彷彿とせしめる。この花の後に出て来るものに敦盛草といふのがある。
とある。
クマガイ草はラン科の多年草で、花は四、五月、茎頂に一個開き、淡黄緑色、径約
八糎 、唇弁は袋状で褐色の模様がある。名は、唇弁の形を源平の戦いに名を残す、
熊谷直実の母衣に見立てて、同属のアツモリ草と対比させたもの。低山の樹林下、と
くに竹林などに群生し、北海道南部から九州、朝鮮半島、中国に分布する。
さて、歌舞伎「一の谷嫩軍記」(宝暦元初 並木宗輔 浅田一鳥ほか)五段のうち
三段目に(熊谷陣屋)がある。
皇統を引く敦盛を死なせては成らぬと考えた義経は、「一枝を伐らば一指を剪るべし」
と記した制札を熊谷次郎直実に与え、桜の枝の保護になぞらえて敦盛を守るように命
じる。熊谷は、その制札の謎を解き、一子小次郎直家を身代わり立てる決心をする。
主命の重さの故ばかりではない。彼はもと佐竹次郎といって大内を守護する武士であ
ったが女官相模と密通、不義の罪に問われるところを藤の局に助けられ、恩義を被っ
ていたのである。そのとき相模の身ごもっていたのが小次郎であった。彼は一の谷の
陣で二人をすり替え、須磨の浦で敦盛実は小次郎を討ち果たす。
この芝居は戦争と武士道のむなしさをテーマにした名作である。
散るものを扇にうけて熊谷草 大堀柊花
一の谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
熊谷草を見せよと仰せありしとか 高濱虚子
「俳諧歳時記」に
近頃は観賞用として盛んに栽培され、早いのは三月の初めから、ヒヤシンスなどと
共に花卉店の店頭に現れるが、これは純粋の日本種であって、叡山や、高野山や、其
の他筑波山にでも榛名山にでも自生している。陰湿な樹下を好むようである。花は大
形で、淡黄緑色に暗紫色の斑点があり、口を開いて舌を出してゐるやうな格好をして
ゐる。それが如何にも熊谷直実が市の谷の海岸で扇をあげて、海中の敦盛を呼び戻し
ている図を彷彿とせしめる。この花の後に出て来るものに敦盛草といふのがある。
とある。
クマガイ草はラン科の多年草で、花は四、五月、茎頂に一個開き、淡黄緑色、径約
八糎 、唇弁は袋状で褐色の模様がある。名は、唇弁の形を源平の戦いに名を残す、
熊谷直実の母衣に見立てて、同属のアツモリ草と対比させたもの。低山の樹林下、と
くに竹林などに群生し、北海道南部から九州、朝鮮半島、中国に分布する。
さて、歌舞伎「一の谷嫩軍記」(宝暦元初 並木宗輔 浅田一鳥ほか)五段のうち
三段目に(熊谷陣屋)がある。
皇統を引く敦盛を死なせては成らぬと考えた義経は、「一枝を伐らば一指を剪るべし」
と記した制札を熊谷次郎直実に与え、桜の枝の保護になぞらえて敦盛を守るように命
じる。熊谷は、その制札の謎を解き、一子小次郎直家を身代わり立てる決心をする。
主命の重さの故ばかりではない。彼はもと佐竹次郎といって大内を守護する武士であ
ったが女官相模と密通、不義の罪に問われるところを藤の局に助けられ、恩義を被っ
ていたのである。そのとき相模の身ごもっていたのが小次郎であった。彼は一の谷の
陣で二人をすり替え、須磨の浦で敦盛実は小次郎を討ち果たす。
この芝居は戦争と武士道のむなしさをテーマにした名作である。
散るものを扇にうけて熊谷草 大堀柊花
一の谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
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そよ風に芽吹きそめたる糸柳
麗かや松の影おく心字池
外濠のまだ幼なくて松の花
水鏡して動かざる鷺の春
城垣の隙間に垂れて春の草
春塵のかすかに野外音楽堂
青銅の鶴の嘴より春の水
麗かや松本楼の昼下り
小鳥飼ふ独りの部屋の雛飾り
春雷の慎みふかく鳴り初めぬ
麗かや松の影おく心字池
外濠のまだ幼なくて松の花
水鏡して動かざる鷺の春
城垣の隙間に垂れて春の草
春塵のかすかに野外音楽堂
青銅の鶴の嘴より春の水
麗かや松本楼の昼下り
小鳥飼ふ独りの部屋の雛飾り
春雷の慎みふかく鳴り初めぬ
雛
雛飾りつつふと命惜しきかな 星野立子
「俳諧歳時記」に
五節句の一つである三月三日の節句に、雛人形に種々の調度を添へて飾る遊びであ
る。上代には雛祭はなかった。雛は昔支那で、上巳の祓ひに用いた形代などから始ま
ったものである。日本では天児或いは這子といふ人形ようのものを、子供の三つにな
るまで祓いに用ひ、これに万の凶事を托して祈ったこと等から転化して、藤原時代に
は宮中で雛あそびをされたことが源氏物語・紫式部日記・枕草子等にも見えてゐる。
後三月上巳の節句を雛遊びの期と定めるようになり、室町時代以来、三月三日諸臣
参賀して祝ふやうになった。
とある。
雛人形主体の節句習俗の歴史は案外に新しい。江戸時代初頭に宮廷や幕府で三月
節句に雛人形にかかわる行事があった記録が現れ、やがて寛文年間以降にようやく
雛祭の形が定着したものとみられる。以後の雛祭は工芸品としての雛人形の生成発達
と関連してしだいに華美になり、また都市から農村へと波及していった。
江戸時代初期の雛飾りは平壇・立ち雛の形が主だったらしいが、やがて精巧な土焼
きの衣装人形の出現で華麗になり、重ね壇に内裏雛以下、官女、大臣、五人囃子、仕
丁、雛道具を並べるという形式が固定していき、新生の女児に雛人形を贈る風習も広
まった。
さて、歌舞伎舞踊の舞台機構の一つに「雛段」がある。地方の坐る舞台上の台で、
二段以上のものをいう。緋毛氈をかけてあり、雛人形を飾る壇に見立てた名称で、
主に上に長唄連中、下に囃子方が坐る。舞台後方正面に位置するのが原則で、演奏者
は作品によって色、模様、紋が異なる肩衣を着用することもあり、背景の一部ともな
る。前方下壇は四寸高またな尺高(一尺)、後方上段は高足(二尺八寸)の高さである。
まれに作品によって、背景と調和した色布を用いることもある。例えば松羽目物や
「鏡獅子」「娘道成寺」などの正面出囃子の場合に使用される。
撫で肩にふるる瓔珞享保雛 大堀柊花
天児(あまかつ)
雛飾りつつふと命惜しきかな 星野立子
「俳諧歳時記」に
五節句の一つである三月三日の節句に、雛人形に種々の調度を添へて飾る遊びであ
る。上代には雛祭はなかった。雛は昔支那で、上巳の祓ひに用いた形代などから始ま
ったものである。日本では天児或いは這子といふ人形ようのものを、子供の三つにな
るまで祓いに用ひ、これに万の凶事を托して祈ったこと等から転化して、藤原時代に
は宮中で雛あそびをされたことが源氏物語・紫式部日記・枕草子等にも見えてゐる。
後三月上巳の節句を雛遊びの期と定めるようになり、室町時代以来、三月三日諸臣
参賀して祝ふやうになった。
とある。
雛人形主体の節句習俗の歴史は案外に新しい。江戸時代初頭に宮廷や幕府で三月
節句に雛人形にかかわる行事があった記録が現れ、やがて寛文年間以降にようやく
雛祭の形が定着したものとみられる。以後の雛祭は工芸品としての雛人形の生成発達
と関連してしだいに華美になり、また都市から農村へと波及していった。
江戸時代初期の雛飾りは平壇・立ち雛の形が主だったらしいが、やがて精巧な土焼
きの衣装人形の出現で華麗になり、重ね壇に内裏雛以下、官女、大臣、五人囃子、仕
丁、雛道具を並べるという形式が固定していき、新生の女児に雛人形を贈る風習も広
まった。
さて、歌舞伎舞踊の舞台機構の一つに「雛段」がある。地方の坐る舞台上の台で、
二段以上のものをいう。緋毛氈をかけてあり、雛人形を飾る壇に見立てた名称で、
主に上に長唄連中、下に囃子方が坐る。舞台後方正面に位置するのが原則で、演奏者
は作品によって色、模様、紋が異なる肩衣を着用することもあり、背景の一部ともな
る。前方下壇は四寸高またな尺高(一尺)、後方上段は高足(二尺八寸)の高さである。
まれに作品によって、背景と調和した色布を用いることもある。例えば松羽目物や
「鏡獅子」「娘道成寺」などの正面出囃子の場合に使用される。
撫で肩にふるる瓔珞享保雛 大堀柊花
天児(あまかつ)
初午や麻布稲荷の大鳥居
大使館までの坂道雪残る
人形の渡来のいはれ春寒し
雪残る麻布の寺にハリスの碑
くらやみ坂雪あかりしてかの子の忌
バレンタインデーのチョコ買ふ坂の街
春寒や麻布に残る雨情の詩
豆源の豆の数々春動く
早春の流れに沿へば波郷の碑
浄土寺に近き砂浜海苔を干す
大使館までの坂道雪残る
人形の渡来のいはれ春寒し
雪残る麻布の寺にハリスの碑
くらやみ坂雪あかりしてかの子の忌
バレンタインデーのチョコ買ふ坂の街
春寒や麻布に残る雨情の詩
豆源の豆の数々春動く
早春の流れに沿へば波郷の碑
浄土寺に近き砂浜海苔を干す
海苔
花のごと流れる海苔をすくひ網 高浜虚子
「俳諧歳時記」に
海藻の一種で、多く風波静謐なる内湾の淡鹹水の混和する所に生ずる。産地として
品川湾は最も有名である。関西では和歌の浦が名高い。採取の期間は十一月中旬から
四月上旬までであるが。採取開始から二月上旬までに採れるのが良質で、二月以降は
次第にあをそがまじる。
とある。
海苔は海産・淡水産の藻類を原料とした食品。青海苔、浅草海苔、ふりかけ海苔、
海苔の佃煮、刺身のつまのオゴノリやフノリ、海藻サラダのトサカノリなどがあり、
いずれも水生の藻類である。青海苔は緑藻植物アオサ科の海藻アオサ、アオノリ、
ヒトエグサなどを乾燥させて板状にしたり、細片にして市販されている。浅草海苔は
紅藻植物ウシケノリ科のアサクサノリやスサビノリの類を養殖し、板状に乾燥させた
ものであるが、他の近縁種(アマノリ属類)が混入することも多い。
さて、「浅草海苔」の起源は、東京の浅草に由来するものである。徳川家康の江戸開
府以後今日に至るまで、浅草以南の臨海域では、たびたび大規模な埋め立てが行われ
たので、現在の地理的関係では想像しにくいが、江戸時代初期の浅草地区は漁村で、
海に近い所だったと考えられる。このため漁民たちは、海岸に生える野生のアマノリ
を採集して、浅草観音周辺に集まる人々に売っていたのであろう。浅草で売られるア
マノリは他地区産よりは良質だったであろうと推定される。そのうえ、以前から浅草
地区にあった紙漉きの手法を応用して、雑物を取り除いたアマノリを浅草海苔の名で
売り出したところ、持ち運びに便利なため江戸土産のとしても好都合で、需要が増え
た。しかし其の後、有名な「生類憐みの令」(一六八五)ために、浅草の漁業が衰退
し、また大地震で海岸域の地勢に変化が起こるなどして、地元での原料産出はなくな
り、もっぱら品川、大森周辺産の原料を使うようになったが、浅草海苔の名は歴史的
な名残として今日まで伝わっている。
拾ふよりついとかをりて流れ海苔 大堀柊花
淡鹹(たんかん)
花のごと流れる海苔をすくひ網 高浜虚子
「俳諧歳時記」に
海藻の一種で、多く風波静謐なる内湾の淡鹹水の混和する所に生ずる。産地として
品川湾は最も有名である。関西では和歌の浦が名高い。採取の期間は十一月中旬から
四月上旬までであるが。採取開始から二月上旬までに採れるのが良質で、二月以降は
次第にあをそがまじる。
とある。
海苔は海産・淡水産の藻類を原料とした食品。青海苔、浅草海苔、ふりかけ海苔、
海苔の佃煮、刺身のつまのオゴノリやフノリ、海藻サラダのトサカノリなどがあり、
いずれも水生の藻類である。青海苔は緑藻植物アオサ科の海藻アオサ、アオノリ、
ヒトエグサなどを乾燥させて板状にしたり、細片にして市販されている。浅草海苔は
紅藻植物ウシケノリ科のアサクサノリやスサビノリの類を養殖し、板状に乾燥させた
ものであるが、他の近縁種(アマノリ属類)が混入することも多い。
さて、「浅草海苔」の起源は、東京の浅草に由来するものである。徳川家康の江戸開
府以後今日に至るまで、浅草以南の臨海域では、たびたび大規模な埋め立てが行われ
たので、現在の地理的関係では想像しにくいが、江戸時代初期の浅草地区は漁村で、
海に近い所だったと考えられる。このため漁民たちは、海岸に生える野生のアマノリ
を採集して、浅草観音周辺に集まる人々に売っていたのであろう。浅草で売られるア
マノリは他地区産よりは良質だったであろうと推定される。そのうえ、以前から浅草
地区にあった紙漉きの手法を応用して、雑物を取り除いたアマノリを浅草海苔の名で
売り出したところ、持ち運びに便利なため江戸土産のとしても好都合で、需要が増え
た。しかし其の後、有名な「生類憐みの令」(一六八五)ために、浅草の漁業が衰退
し、また大地震で海岸域の地勢に変化が起こるなどして、地元での原料産出はなくな
り、もっぱら品川、大森周辺産の原料を使うようになったが、浅草海苔の名は歴史的
な名残として今日まで伝わっている。
拾ふよりついとかをりて流れ海苔 大堀柊花
淡鹹(たんかん)