俳句
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船遊び吾妻橋より離宮まで
しばらくは裏窓ばかり船遊び
いくつもの橋をくぐりて遊び船
船下りて青葉若葉の浜離宮
船笛を遥かに離宮梅雨晴間
潮入りの水輪は鰡の跳ねしもの
さまよえる蟻とお伝ひ橋渡る
茂りより茂りへぬけて浜離宮
水音のいつもどこかに夏館
やや褪せし日傘を少し疎みつつ
しばらくは裏窓ばかり船遊び
いくつもの橋をくぐりて遊び船
船下りて青葉若葉の浜離宮
船笛を遥かに離宮梅雨晴間
潮入りの水輪は鰡の跳ねしもの
さまよえる蟻とお伝ひ橋渡る
茂りより茂りへぬけて浜離宮
水音のいつもどこかに夏館
やや褪せし日傘を少し疎みつつ
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日傘
降りしきる松葉に日傘かざしけり 星野 立子
「俳諧歳時記」に
さしがさの一種にして、紙または絹にて張り、夏日日光を遮るために用ふる傘をい
ふ。これに彩色絵を描きたるものを絵日傘といふ。小児婦女子の用ゆるものなり。
田舎にては「日唐傘」といふ由。昔は日傘をさすは高貴の人に限っていた。
とある。
傘は頭髪にかぶる笠にたいして、手に持つ「かさ」を傘あるいは差し傘という。
我が国では、古くは貴族たちや僧侶たちの間で日除け傘として使用されたが、鎌倉
時代中期になると雨傘として用いられるようになった。さらに江戸時代中期に、子供
用の日傘が登場すると、これが大人の間にも利用されるに至った。傘は元来、外来
文化の舶載品であり、我が国に初めてもたらされたのは欽明天皇の時代に、百済の
聖明王から贈られたものである。これは蓋といわれ傘の周りに裂を張り巡らせて房を
をつけ、長い柄の長柄傘として、儀式や外出のおりに天皇をはじめ公家たちの頭上に
従臣が差しかけて用いた。長柄傘は鎌倉時代に仏教文化が盛んになると、僧侶の間で
紙張りをした朱塗傘が用いられ、江戸時代には大名の参勤交代あるいは登城など、供
揃えのときに爪折傘として用いられた。民間では特殊な社会、つまり廓で太夫が道中
をする際に、定紋をつけた長柄傘を用いた。、
さて、歌舞伎舞踊に「屋敷娘」がある。本名題は「四季詠丸にい歳」(天保十初)
常磐津・長唄の掛合いだったが、今は 双方とも残っている。
武家屋敷に行儀作法を見習いに上がっている娘の、宿下がりの風情を踊る。腰元の
姿なので、髪は紅白、丈長付きの文金高島田、御殿模様の着付けに織物の帯。「千草も
野辺の通い路に」から花道の出。日傘を差し、金銀の姫扇を使っての振である。
人避けてゐるかのごとく日傘ゆく 大堀 柊花
蓋(きぬがさ)裂(きれ)四季詠丸にい歳(しきのながめまるにいのとし)
青梅雨や都庁になびくビルの群
福都心展望室の梅雨灯
新宿のビルの谷間の青時雨
見下ろして新緑に目を休ませる
展望の新宿御苑梅雨深し
深梅雨や富士見ゆるのはこのあたり
高層の玻璃曇らせて梅雨荒るる
梅雨の傘つらねてビルの谷間かな
蜈蚣出づ毘沙門堂の暗闇に
著莪咲いて日差やさしと思ひけり
福都心展望室の梅雨灯
新宿のビルの谷間の青時雨
見下ろして新緑に目を休ませる
展望の新宿御苑梅雨深し
深梅雨や富士見ゆるのはこのあたり
高層の玻璃曇らせて梅雨荒るる
梅雨の傘つらねてビルの谷間かな
蜈蚣出づ毘沙門堂の暗闇に
著莪咲いて日差やさしと思ひけり
蜈蚣
罪を負ふごとく百足の逃げ惑ふ 百合山羽公
「俳諧歳時記「に
数多く足を持てるより百足とも書かれる虫、多く石垣の間、樹の根、床下など陰湿
の所に棲み、体扁平にして赤褐色、数十の環節より成り、長さは五六寸にも達するも
のあり。一対の髭と岐れたる尾をもち、脚は二十対、その第一対は鈎型になりて毒を
持つ。これに刺さるれば疼痛甚し。口器発達して虫類を捕食する。
とある。
ムカデの毒は酸性で、大形のトビズムカデやアオズムカデに噛まれると、かなり激
しい痛みがあり、患部が腫れる。ときに、リンパ腺炎をおこし、発熱することもある。
しかし、人命にかかわることはまずない。毒成分としてヒスタミンやセロトニンが検
出されており、激しい痛みはセロトニンによると考えられ治療には薄いアンモニア水
を塗布するのがよい。
日本では蛇が百足を恐れるという伝えが古くからあり、秋田県には、五寸の百足が
五尺の蛇をとるという諺がある。
さて、御伽草子の「俵藤太物語」を紹介する。朱雀天皇の時代のある時、近江の国
瀬田の唐橋に長さ二十丈もの大蛇が横たわるということがあった。人々は怖れて橋を
渡ることができなかったが、そこに出くわした藤太は、少しも怖れることなく大蛇
の背を踏みつけて橋を渡ってしまう。その夜、一人の若く美しい女人が藤太を訪ねて
きて「私は昼間お会いした大蛇で、琵琶湖に棲む龍神の一族の者ですが、三上山の百
足に苦しめられ困っています。あなたを見込んで、百足退治をお願いしたい」藤太は
快諾し、先祖より受け継いだ名剣と重藤の弓に三本の大矢を携えて三上山に臨むと、
稲光とともに、二、三千本余りの脚のすべてに松明を掲げて、三上山を七巻き半する
ほどの大百足が現れた。藤太は二本の矢を射るが、大百足には通じない。そこで矢尻
に唾を吐きかけ、南無八幡大菩薩と祈念して射ると今度は通じ、大百足を退治するこ
とができた。
漆黒の梁よりはらと大蜈蚣 大堀柊花
俵藤太物語(たわらのとうたものがたり)御伽草子(おとぎぞうし
罪を負ふごとく百足の逃げ惑ふ 百合山羽公
「俳諧歳時記「に
数多く足を持てるより百足とも書かれる虫、多く石垣の間、樹の根、床下など陰湿
の所に棲み、体扁平にして赤褐色、数十の環節より成り、長さは五六寸にも達するも
のあり。一対の髭と岐れたる尾をもち、脚は二十対、その第一対は鈎型になりて毒を
持つ。これに刺さるれば疼痛甚し。口器発達して虫類を捕食する。
とある。
ムカデの毒は酸性で、大形のトビズムカデやアオズムカデに噛まれると、かなり激
しい痛みがあり、患部が腫れる。ときに、リンパ腺炎をおこし、発熱することもある。
しかし、人命にかかわることはまずない。毒成分としてヒスタミンやセロトニンが検
出されており、激しい痛みはセロトニンによると考えられ治療には薄いアンモニア水
を塗布するのがよい。
日本では蛇が百足を恐れるという伝えが古くからあり、秋田県には、五寸の百足が
五尺の蛇をとるという諺がある。
さて、御伽草子の「俵藤太物語」を紹介する。朱雀天皇の時代のある時、近江の国
瀬田の唐橋に長さ二十丈もの大蛇が横たわるということがあった。人々は怖れて橋を
渡ることができなかったが、そこに出くわした藤太は、少しも怖れることなく大蛇
の背を踏みつけて橋を渡ってしまう。その夜、一人の若く美しい女人が藤太を訪ねて
きて「私は昼間お会いした大蛇で、琵琶湖に棲む龍神の一族の者ですが、三上山の百
足に苦しめられ困っています。あなたを見込んで、百足退治をお願いしたい」藤太は
快諾し、先祖より受け継いだ名剣と重藤の弓に三本の大矢を携えて三上山に臨むと、
稲光とともに、二、三千本余りの脚のすべてに松明を掲げて、三上山を七巻き半する
ほどの大百足が現れた。藤太は二本の矢を射るが、大百足には通じない。そこで矢尻
に唾を吐きかけ、南無八幡大菩薩と祈念して射ると今度は通じ、大百足を退治するこ
とができた。
漆黒の梁よりはらと大蜈蚣 大堀柊花
俵藤太物語(たわらのとうたものがたり)御伽草子(おとぎぞうし
扇屋の扇全開して祭
芍薬を活けて手狭な祭店
路地の恋仲見世の恋祭どき
藍染めの半纏似合ふ祭髪
たぬき路地ぬけて涼しき人力車
新緑の伝通院へひと入れず
山門の朱にうち映えて夏柳
もつ鍋のぐつぐつ煮立つ祭かな
このごろは忘れやすくて時計草
草笛の遠のいてより水の音
芍薬を活けて手狭な祭店
路地の恋仲見世の恋祭どき
藍染めの半纏似合ふ祭髪
たぬき路地ぬけて涼しき人力車
新緑の伝通院へひと入れず
山門の朱にうち映えて夏柳
もつ鍋のぐつぐつ煮立つ祭かな
このごろは忘れやすくて時計草
草笛の遠のいてより水の音