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深川に昔のありて桜鍋
お座敷の欄間もさくら桜鍋
運ばるるまで庭を見て桜鍋
扁額は纏づくしや桜鍋
相方は憎からぬひと桜鍋
わざおぎの旧居のあとの冬芽かな
空想のときに途絶えて冬籠
告白の言葉もっとも息白し
かけねなくやさしくされて蕪汁
冷たくて愛の言葉の上滑り
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   来よと言ふ小諸は遠し冬籠  武原はん女

   「俳諧歳時記」に、
   冬の寒い間、防寒の用意をして家の内に引籠ってゐることは東北地方や北陸、北海道のやうな寒国にして初めて充分味ははれることであらうが、必ずしも寒国に極ったことはない。冬の間は兎角外出することが億劫になって家居がちのものである。堅く閉ざしたガラス戸越しに、庭へやって来てゐる笹鳴をぢっと眺めてゐたり、火鉢に炭をついだりすることも、自ら起居の中に静かな冬籠の心持はあるものである。
  とある。
   俳句の季語としての冬は、立冬(十一月八日ごろ)から立春(二月四日ごろ)の前日までをいい、初冬(立冬から大雪の前日、十二月七日ごろまで)、仲冬(大雪から小寒の前日、一月五日ごろまで)、晩冬(小寒から立春の前日、二月三日ごろまで)の三冬(冬全体)に分けていわれる。
   「古今集」に、「雪降れば冬ごもりせる草も木も 春に知られぬ花ぞ咲きける」(紀貫之)などと詠まれている。

   さて、松本たかしに「夢に舞ふ能美しや冬籠」(昭和十六)がある。
   今はかえらぬ己れの舞台姿を、冬籠のとある夜の夢に見たあとでの悔恨句である。「冬籠」の季語には初句、中七の悔恨を受けて、より深い虚しさの訴えがある。
   昭和九年、「ホトトギス」に載せた俳話のなかに「私の父など、自身は苦難な鍛錬道を辿って来たにもかかわらず、自由主義的な考をもってゐる方なのであるが、修業時代に私が下駄をはいてゐて、よろけたりすると、能役者のクセによろける奴があるか、と微笑し乍らもかうした口吻が迸り出るのである。これは腰が悪いと云ふことに対しての注意で、能役者の動きに於いて、腰のいい悪いは、非常に重大なことなのである。十五六以後稽古といふものをしない、私の姿勢などは気が附いてみると、何時の間にか背は曲り、肩は前へ出、首には力がなく、足許はおぼつかなくなってしまひ、身体の動きは滑らかさを失くしてしまった。」と述懐している。

   冬ごもり秀衡塗をたなごころ  大堀 柊花

  冬籠(ふゆごもり)大雪(たいせつ)秀衡(ひでひら)口吻(くちぶり)

黒松の威容を今に御所の冬
冬麗や高麗門の鋲さびて
城垣に燃えうつらむと櫨紅葉
紅葉狩ここより先は三の丸
二の丸の奥や小春の滝落し
城濠の松の影よりかいつぶり
時雨忌の遡りゆく舟ひとつ
飼鳥と日差をわかち冬暖か
神迎うす化粧して戀の巫女
風強き関八州の懸大根
   ばせを忌や伊賀の干しそばみのゝ柿  梅室

   「ホトトギス新歳時記」に、
   陰暦十月十二日、俳諧の祖、松尾芭蕉の忌日。ちょうど時雨の季節であり、芭蕉の説いた閑寂、幽玄、枯淡の趣と時雨が通ずるところから時雨忌ともいう。正保元年(一六四四)伊賀上野に生まれ、元禄七年(一六九四)旅の途次大阪で没した。享年五十一歳。自らも翁といっていたところから翁忌ともいう。墓は大津の義仲寺にある。芭蕉生前の号をとって桃青忌ともいう。
  とある。
   芭蕉は江戸前期の俳人。日本近世文学の最盛期をなす元禄期(一六八八から一七〇四)を、井原西鶴、近松門左衛門、芭蕉と並んで、それぞれ小説、浄瑠璃、俳諧の分野を代表して、三大文豪と評価されている。
   松尾与左衛門の子として生まれ、兄半左衛門のほかに、四人姉妹があり、家格は無足人であった。藤堂藩の侍大将であった藤堂新七郎良精の嗣子、良忠に子小姓として出仕、時に十九歳。良忠とともに貞門の北村季吟系の俳諧を学んだ。
   延宝八年(一六八〇)、閑寂の地を求めて、江戸深川六間堀の魚商杉風の生簀の番小屋に移り、門下から一株の芭蕉を贈られて芭蕉庵とよび芭蕉翁と尊称された。

   さて、東京都江東区の西部にある深川は、摂津の人深川八郎右衛門が開拓したといわれている。江戸時代には木材の集散地として深川木場が繁栄し、また永代寺、富岡八幡宮の門前町として成長した。埋立ての伸展に伴い岡場所も多くでき、また深川芸者はその方角により辰巳芸者ともよばれた。
   荻江節に「深川八景」(明治九)があるが、江戸深川の名所、(永代橋の水鏡、永代寺の晩鐘、冬の木場、塩浜、仲町、州崎弁天、佃の雨、深川八幡宮)を近江八景になぞらえ、春夏秋冬の四季の景色の移り変わりを歌っている。前弾には「佃の合方」を取り入れ、深川の川端の描写を行い、全体に粋な雰囲気をかもし出した荻江節の代表曲である。

   時雨忌や深川の灯のともりそめ  大堀 柊花

  芭蕉忌(ばせをき)無足人(むそくにん)良精(よしきよ)仲町(なかちょう)
    送らるゝ節分の夜のよき車  星野 立子

  「栞草」に、
  凡そ節分は立春の前日にあり。年内節分あるときは、禁裡熬豆を殿中に撒せられて疫鬼を逐ふ。今夜、大豆を撒くを拍といふ。同夜、家々の門戸に鰯の頭、狗骨の条を挿む。
 とある。
  また「俳諧歳時記」に、
  立春の前夜のことで、大寒より十五日目、大低陽暦の二月三・四日頃に当る。この夜神社、寺院などでは追儺の式を行ひ、民間でも豆を撒く習慣がある。
 とある。
  節分は季節の変り目。立春・立夏・立秋・立冬の前日。とくに立春の前日が重んじられている。現行暦では二月三日または四日。節分は太陽の運行を基準にして設けられているから、旧暦の時代には期日が一定せず、大晦日より前になることがあり、「年の内に春は来にけり」という場面があった。そのため節分行事のなかには、正月行事から移行
 したり混同したりしたものもある。追儺は節分行事として著名であるが、これが節分に
 行われるようになったのは室町時代以後のことで、鎌倉時代末ごろまでは宮中の追儺行事は大晦日に行われていた。

  さて、狂言に「節分」がある。夫が出雲大社へ年籠りに行った留守を守っている妻の
 ところへ、蓬莱の島の鬼が、節分の豆を拾って食べようと日本へやってくる。この家の灯を頼って案内を請い、荒麦を与えられるが、見れば美しい女房である。心を奪われ、なんとか気に入られようと、蓬莱にはやる小歌を次々に謡って慕い寄るが、女が受け付けないので、ついに泣き出してしまう。そこで女は心を和らげたふりをして、鬼の宝で
 ある隠れ蓑と隠れ笠を取り上げてから家へ入れると、さて時分もよし、「鬼は外へ」と豆を鬼にぶっつけて追い立てていく。鬼が純情な男性のような恋情を示すのが漫画的で、鬼の謡う豊富な民衆流行歌謡も楽しい。

  節分の日差しを揺らし寺の鳩  大堀 柊花

 節分(せつぶん)熬豆(いりまめ)疫鬼(えきき)拍(はやす)狗骨(ひひらぎ)
 頭(かしら)条(えだ)挿む(はさむ
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