俳句
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初しぐれ眉に烏帽子の雫哉 蕪村
「俳諧歳時記」に、
その冬はじめて降る時雨で、時雨は季秋からも降って古今集にも「惜しからむ人の心を知らぬ間に 秋のしぐれと身はふりにける」とある通りだが、実際時雨の趣は初冬からで、「神無月降りみ降らずみ定めなき 時雨ぞ冬の初めなりける」と後選集にある通り。
とある。
時雨は晩秋から初冬にかけて降る雨で、降ったりやんだりするにわか雨をいう。「万葉集」には四十例近くみえ、巻八や巻十では秋雑歌に位置づけされており、「九月のしぐれの雨に濡れ通り 春日の山は色づきにけり」(巻十)など、秋に重点を置きながら、紅葉(万葉では黄葉)を染めたり散らしたりするものと考えられていた。「時雨」という用字はまだなく、平安時代に入ってからのものらしい。「古今集」の用例は一二例、季節意識としては「万葉集」と同様だが、「我が袖にまだき時雨の降りぬるは 君が心にあきや来ぬらむ」(恋五)のように涙の比喩として詠まれたりするようになり、物語や日記などにもわびしさや悲しみを暗示する景物として用いられている。
さて、近松に「心中天網島」があり、その改作に「時雨の炬燵」がある。
大阪天満の紙屋主人治兵衛は、貞淑な妻おさんと勘太郎・お末の二人の子供までありながら、曽根崎新地紀伊国屋の遊女小春と深い仲になり、金につまって心中の約束をするまでに追いつめられている。夫の様子を心配したおさんは、小春に、夫の命を助けてほしいと嘆願する手紙を書く。小春はおさんの心情にうたれ、治兵衛と別れる決意をする。
治兵衛「足掛け三年がその間、露ほども悋気せぬそなたに言うも恥ずかしながら、ツイこの間も曽根崎で、残らず聞いた小春めが不心中・・」
おさんは、小春が自害するのではないかと心配し、夫の面目を立てさせるために、商売のために準備した金子と自分や子供の衣類を質に入れて、小春の身請けの金をつくろうとする。
初時雨塔の風鐸濡らしつつ 大堀柊花
「俳諧歳時記」に、
その冬はじめて降る時雨で、時雨は季秋からも降って古今集にも「惜しからむ人の心を知らぬ間に 秋のしぐれと身はふりにける」とある通りだが、実際時雨の趣は初冬からで、「神無月降りみ降らずみ定めなき 時雨ぞ冬の初めなりける」と後選集にある通り。
とある。
時雨は晩秋から初冬にかけて降る雨で、降ったりやんだりするにわか雨をいう。「万葉集」には四十例近くみえ、巻八や巻十では秋雑歌に位置づけされており、「九月のしぐれの雨に濡れ通り 春日の山は色づきにけり」(巻十)など、秋に重点を置きながら、紅葉(万葉では黄葉)を染めたり散らしたりするものと考えられていた。「時雨」という用字はまだなく、平安時代に入ってからのものらしい。「古今集」の用例は一二例、季節意識としては「万葉集」と同様だが、「我が袖にまだき時雨の降りぬるは 君が心にあきや来ぬらむ」(恋五)のように涙の比喩として詠まれたりするようになり、物語や日記などにもわびしさや悲しみを暗示する景物として用いられている。
さて、近松に「心中天網島」があり、その改作に「時雨の炬燵」がある。
大阪天満の紙屋主人治兵衛は、貞淑な妻おさんと勘太郎・お末の二人の子供までありながら、曽根崎新地紀伊国屋の遊女小春と深い仲になり、金につまって心中の約束をするまでに追いつめられている。夫の様子を心配したおさんは、小春に、夫の命を助けてほしいと嘆願する手紙を書く。小春はおさんの心情にうたれ、治兵衛と別れる決意をする。
治兵衛「足掛け三年がその間、露ほども悋気せぬそなたに言うも恥ずかしながら、ツイこの間も曽根崎で、残らず聞いた小春めが不心中・・」
おさんは、小春が自害するのではないかと心配し、夫の面目を立てさせるために、商売のために準備した金子と自分や子供の衣類を質に入れて、小春の身請けの金をつくろうとする。
初時雨塔の風鐸濡らしつつ 大堀柊花
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楼門の今せり上がる初芝居
猩猩がほどには飲めず年の酒
獅子頭とれば団十郎なりし
ときめきの隠し切れざる初鏡
きのふ見し夢の色なり切山椒
小綺麗な貌を揃へて初雀
小鼠の鼻に紅さし寒の内
大寒の小鳥を葬る土の色
絶え間なき多摩の瀬音や寒造
寒月の思ひがけなき円かさよ
手ごたへのなき暗闇へ豆を打つ
猩猩がほどには飲めず年の酒
獅子頭とれば団十郎なりし
ときめきの隠し切れざる初鏡
きのふ見し夢の色なり切山椒
小綺麗な貌を揃へて初雀
小鼠の鼻に紅さし寒の内
大寒の小鳥を葬る土の色
絶え間なき多摩の瀬音や寒造
寒月の思ひがけなき円かさよ
手ごたへのなき暗闇へ豆を打つ
住み古りし家の小暗さ初鏡 高濱年尾
「ホトトギス新歳時記」に、
新年になって、初めて鏡に向かうこと。またその鏡をいう。必ずしも女に限らず、男が新年の自分の姿を鏡に映すことも初鏡といってよいであろう。初化粧。
とある。
鏡は、中国や日本の古代においては、単なる化粧用具としてだけでなく、呪術的な霊力を備えたものとして重要視され、祭器や首長の権力の象徴とされた。
西洋における鏡の起源は正確には明らかでないが、金属器時代の初めにオリエント地域で製作が始められたと思われる。東洋の鏡は中国鏡を主流とし、日本・朝鮮など周辺地域の製品を傍流とする。本列島に銅鏡が登場するのは弥生時代以降である。
鏡は今日のようにガラスが発明利用されるまでは金属製のものであった。しかも鏡は貴重品で、庶民には簡単に手に入らぬものであり、鏡研師がいて鏡のくもりを研いだものであった。三種の神器の一つに鏡が入っているように、鏡は多くの神社の御神体とされている。鏡が一般の人々に使用される以前には、水鏡といって水面に姿を映
してそれを見たのである。伝説に鏡池とあるのはこの水鏡のことを語ったものである。
さて、常磐津の舞踊劇に「京人形」(三世桜田治助作 五世岸沢式佐作曲 弘化四)がある。
彫物師の左甚五郎は京の廓で見た小車太夫のことが忘れられず、太夫に生き写しの人形を彫りあげた。そして女房に酒の用意をさせて、人形相手に一人酒盛りを始めたところ、人形が動き出した。甚五郎は喜ぶが、その動きは粗く男っぽい。甚五郎の男の魂が入ってしまったからである。甚五郎は廓の中で小車太夫が落とした鏡を拾って持っていることに気づき、取り出して人形の懐に入れると人形は太夫の魂になり、太夫そっくりに廓話をし、甚五郎とともに連れ舞いを踊り出す。
名工左甚五郎の逸話を仕組んだ作で、黙阿弥の「拙腕左彫物」が下敷きになっている。
諸肌をぬいで楽屋の初鏡 大堀柊花
拙腕左彫物(およばぬうでひだりのほりもの)
「ホトトギス新歳時記」に、
新年になって、初めて鏡に向かうこと。またその鏡をいう。必ずしも女に限らず、男が新年の自分の姿を鏡に映すことも初鏡といってよいであろう。初化粧。
とある。
鏡は、中国や日本の古代においては、単なる化粧用具としてだけでなく、呪術的な霊力を備えたものとして重要視され、祭器や首長の権力の象徴とされた。
西洋における鏡の起源は正確には明らかでないが、金属器時代の初めにオリエント地域で製作が始められたと思われる。東洋の鏡は中国鏡を主流とし、日本・朝鮮など周辺地域の製品を傍流とする。本列島に銅鏡が登場するのは弥生時代以降である。
鏡は今日のようにガラスが発明利用されるまでは金属製のものであった。しかも鏡は貴重品で、庶民には簡単に手に入らぬものであり、鏡研師がいて鏡のくもりを研いだものであった。三種の神器の一つに鏡が入っているように、鏡は多くの神社の御神体とされている。鏡が一般の人々に使用される以前には、水鏡といって水面に姿を映
してそれを見たのである。伝説に鏡池とあるのはこの水鏡のことを語ったものである。
さて、常磐津の舞踊劇に「京人形」(三世桜田治助作 五世岸沢式佐作曲 弘化四)がある。
彫物師の左甚五郎は京の廓で見た小車太夫のことが忘れられず、太夫に生き写しの人形を彫りあげた。そして女房に酒の用意をさせて、人形相手に一人酒盛りを始めたところ、人形が動き出した。甚五郎は喜ぶが、その動きは粗く男っぽい。甚五郎の男の魂が入ってしまったからである。甚五郎は廓の中で小車太夫が落とした鏡を拾って持っていることに気づき、取り出して人形の懐に入れると人形は太夫の魂になり、太夫そっくりに廓話をし、甚五郎とともに連れ舞いを踊り出す。
名工左甚五郎の逸話を仕組んだ作で、黙阿弥の「拙腕左彫物」が下敷きになっている。
諸肌をぬいで楽屋の初鏡 大堀柊花
拙腕左彫物(およばぬうでひだりのほりもの)
吾妻橋駒形橋と冬うらら
冬鳥の声透きとほり伝通院
神木の冬木となりて日を恋へる
正面の大羽子板に見下ろされ
小道具のやうな火鉢も扇店
年の市名入り提灯はや点し
雪吊を店の飾りに路地の奥
初雪や出会ひといふは仮初めに
山肌をやはらかくして冬日かな
うしろより親しみこめて笹鳴ける
冬鳥の声透きとほり伝通院
神木の冬木となりて日を恋へる
正面の大羽子板に見下ろされ
小道具のやうな火鉢も扇店
年の市名入り提灯はや点し
雪吊を店の飾りに路地の奥
初雪や出会ひといふは仮初めに
山肌をやはらかくして冬日かな
うしろより親しみこめて笹鳴ける
笹鳴やあしたといはず今日訪ひぬ 今井つる女
「栞草」に、
ささ鳴は古抄より啼の字を結びて冬となせれども、鶯の子啼とは、名目も長ければ、啼の字なくとも冬とさだむべし。冬至のころより鳴習ふゆゑに、其子に冬の用あればなり。「俳諧歳時記」に、冬日、藪中に鳴、これをささ鳴といふと、云々。此説おだやかならず。愚、按ずるに、ささは少しの義、鶯の子の鳴きならひをいふべし。
とある。
また「和漢三才図会」の鶯の項に、
冬月は喞喞といふ風に鳴き、人が舌鼓をうつ音に似ている。
とある。
ウグイスの分布は比較的狭く、日本と、黒龍江か揚子江にかけての東アジアにのみ産する。日本では小笠原諸島、南西諸島などにも分布している。渡りにつぃてはよくわかってはいないが、樺太南部、南千島、北海道では夏鳥であり、海を越えて渡るものがあることは確かである。本州以南のものは、平地に標行する程度の、ごく小規模な移動をするものが多いと考えられる。繁殖期のウグイスは、山地の大きな樹木の生えていない明るい笹藪を中心に生活し、巣は笹の枝、または低木の地上一㍍ぐらいのところにつくる。食物は四季を通じて、昆虫類、クモ類がおもで、低木や笹を飛び移りながら、伸び上がって、または飛び上がって捕まえる。
さて、星野立子に「笹鳴や鰯配給みかん配給」の句がある。
昭和十八年作、日本の暗黒時代、敗戦を知らぬ国民は飢えと戦っていた。そして戦争は酣であった。皆勝つと信じて頑張っていたが、そろそろ負け戦ではないかと巷では思わぬでもなかった。食べ物は一切配給に頼り、闇屋が横行していたし、買出しに出かけなければ飢えのため死ぬより他はなかった。時々とんでもないものが配給になった。この句のように鰯もみかんもほんのすこしづつ配給になっていたが、この句から今になってみて母の国に対する憤懣のようなものが汲みとれる。一家を食べさせてゆく女主はどこでも大変であった。
笹鳴のもはやとどかぬ遠さかな 大堀柊花 喞喞(つえつつえつ)酣(たけなわ)
「栞草」に、
ささ鳴は古抄より啼の字を結びて冬となせれども、鶯の子啼とは、名目も長ければ、啼の字なくとも冬とさだむべし。冬至のころより鳴習ふゆゑに、其子に冬の用あればなり。「俳諧歳時記」に、冬日、藪中に鳴、これをささ鳴といふと、云々。此説おだやかならず。愚、按ずるに、ささは少しの義、鶯の子の鳴きならひをいふべし。
とある。
また「和漢三才図会」の鶯の項に、
冬月は喞喞といふ風に鳴き、人が舌鼓をうつ音に似ている。
とある。
ウグイスの分布は比較的狭く、日本と、黒龍江か揚子江にかけての東アジアにのみ産する。日本では小笠原諸島、南西諸島などにも分布している。渡りにつぃてはよくわかってはいないが、樺太南部、南千島、北海道では夏鳥であり、海を越えて渡るものがあることは確かである。本州以南のものは、平地に標行する程度の、ごく小規模な移動をするものが多いと考えられる。繁殖期のウグイスは、山地の大きな樹木の生えていない明るい笹藪を中心に生活し、巣は笹の枝、または低木の地上一㍍ぐらいのところにつくる。食物は四季を通じて、昆虫類、クモ類がおもで、低木や笹を飛び移りながら、伸び上がって、または飛び上がって捕まえる。
さて、星野立子に「笹鳴や鰯配給みかん配給」の句がある。
昭和十八年作、日本の暗黒時代、敗戦を知らぬ国民は飢えと戦っていた。そして戦争は酣であった。皆勝つと信じて頑張っていたが、そろそろ負け戦ではないかと巷では思わぬでもなかった。食べ物は一切配給に頼り、闇屋が横行していたし、買出しに出かけなければ飢えのため死ぬより他はなかった。時々とんでもないものが配給になった。この句のように鰯もみかんもほんのすこしづつ配給になっていたが、この句から今になってみて母の国に対する憤懣のようなものが汲みとれる。一家を食べさせてゆく女主はどこでも大変であった。
笹鳴のもはやとどかぬ遠さかな 大堀柊花 喞喞(つえつつえつ)酣(たけなわ)