俳句
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三月と文にかくのも名残かな 去來
「俳諧歳時記」に、
陰暦の三月だともう春が深いのであるが、現在は陽暦であるから、三月といへば自然風物も春未だ寒い心地のする時候である。しかし日本は南から北に極めて長い国であるので、北国の三月と南国の三月では、一月以上も陽気が違ふ。即ち北陸から東北にかけては、まだ雪も深く、降雪もあり、雪割・雪除けに忙しい月であるが、南の国ではもう菜の花が咲き、桃が咲き、蝶が舞ふ。しかし雪国でも三月になればさすがに木々の芽はふくらみ、雪を起こして見れば、ものの芽も現はれはじめて居て、明らかに春といふ心持を深くする。
とある。
三月は仲春の月であり、この月の半ばになるとめっきり暖かくなってくる。暑さ寒さも彼岸までと言い、また関西では奈良のお水取(十三日)や比良八講(陰暦二月十四日)の日が過ぎぬと暖かくならぬなどと言っている。三月は寒暖の交替期である。
さて、歌舞伎に「弥生狂言」がある。
三月の興行、またはその演目をいう。享保~寛政(一七一六~一八0一)ごろまで、江戸では初春(正月)から三、四月まで「曽我狂言」が続演され、すべて曽我の世界で休みなく打ちつづけられてきたが、このシステムはやがて飽きられ、寛政期に初世並木五瓶が江戸へ下り、春狂言の二番目を独立させ、別名題を付けるようになって以後、初春狂言は二月に終わり、三月からは改めて弥生狂言として別に上演することになった。京阪では以前から三月興行は正月興行と別立てとなっていた。また三月は大奥ならびに諸侯奥向きに勤務する御殿女中の宿下がりの月にあたり、これらの女性客をあてこみ「先代萩」「鏡山」「新薄雪」など奥女中が登場し活躍する演目、また新作を含めて「不破名古屋」「清玄桜姫」などのはなやかな演目が選定された。
ゆくりなく立見へ並ぶ弥生かな 大堀柊花
五瓶(ごへい)
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江東の春や水路に橋いくつ
橋の数かぞへそびれて水の春
川風に桜蕊降る渡し跡
水門の水せめぎ合ふ養花天
鋳物師の住みし川すぢ日永かな
芽柳の水にとどかず水の町
暖かや水路と水路まじはりて
海鳥の来ている水路遅桜
足で漕ぐボートゆきかひ夏近し
放牧の馬を遠くに熊谷草
橋の数かぞへそびれて水の春
川風に桜蕊降る渡し跡
水門の水せめぎ合ふ養花天
鋳物師の住みし川すぢ日永かな
芽柳の水にとどかず水の町
暖かや水路と水路まじはりて
海鳥の来ている水路遅桜
足で漕ぐボートゆきかひ夏近し
放牧の馬を遠くに熊谷草
熊谷草
熊谷草を見せよと仰せありしとか 高濱虚子
「俳諧歳時記」に
近頃は観賞用として盛んに栽培され、早いのは三月の初めから、ヒヤシンスなどと
共に花卉店の店頭に現れるが、これは純粋の日本種であって、叡山や、高野山や、其
の他筑波山にでも榛名山にでも自生している。陰湿な樹下を好むようである。花は大
形で、淡黄緑色に暗紫色の斑点があり、口を開いて舌を出してゐるやうな格好をして
ゐる。それが如何にも熊谷直実が市の谷の海岸で扇をあげて、海中の敦盛を呼び戻し
ている図を彷彿とせしめる。この花の後に出て来るものに敦盛草といふのがある。
とある。
クマガイ草はラン科の多年草で、花は四、五月、茎頂に一個開き、淡黄緑色、径約
八糎 、唇弁は袋状で褐色の模様がある。名は、唇弁の形を源平の戦いに名を残す、
熊谷直実の母衣に見立てて、同属のアツモリ草と対比させたもの。低山の樹林下、と
くに竹林などに群生し、北海道南部から九州、朝鮮半島、中国に分布する。
さて、歌舞伎「一の谷嫩軍記」(宝暦元初 並木宗輔 浅田一鳥ほか)五段のうち
三段目に(熊谷陣屋)がある。
皇統を引く敦盛を死なせては成らぬと考えた義経は、「一枝を伐らば一指を剪るべし」
と記した制札を熊谷次郎直実に与え、桜の枝の保護になぞらえて敦盛を守るように命
じる。熊谷は、その制札の謎を解き、一子小次郎直家を身代わり立てる決心をする。
主命の重さの故ばかりではない。彼はもと佐竹次郎といって大内を守護する武士であ
ったが女官相模と密通、不義の罪に問われるところを藤の局に助けられ、恩義を被っ
ていたのである。そのとき相模の身ごもっていたのが小次郎であった。彼は一の谷の
陣で二人をすり替え、須磨の浦で敦盛実は小次郎を討ち果たす。
この芝居は戦争と武士道のむなしさをテーマにした名作である。
散るものを扇にうけて熊谷草 大堀柊花
一の谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
熊谷草を見せよと仰せありしとか 高濱虚子
「俳諧歳時記」に
近頃は観賞用として盛んに栽培され、早いのは三月の初めから、ヒヤシンスなどと
共に花卉店の店頭に現れるが、これは純粋の日本種であって、叡山や、高野山や、其
の他筑波山にでも榛名山にでも自生している。陰湿な樹下を好むようである。花は大
形で、淡黄緑色に暗紫色の斑点があり、口を開いて舌を出してゐるやうな格好をして
ゐる。それが如何にも熊谷直実が市の谷の海岸で扇をあげて、海中の敦盛を呼び戻し
ている図を彷彿とせしめる。この花の後に出て来るものに敦盛草といふのがある。
とある。
クマガイ草はラン科の多年草で、花は四、五月、茎頂に一個開き、淡黄緑色、径約
八糎 、唇弁は袋状で褐色の模様がある。名は、唇弁の形を源平の戦いに名を残す、
熊谷直実の母衣に見立てて、同属のアツモリ草と対比させたもの。低山の樹林下、と
くに竹林などに群生し、北海道南部から九州、朝鮮半島、中国に分布する。
さて、歌舞伎「一の谷嫩軍記」(宝暦元初 並木宗輔 浅田一鳥ほか)五段のうち
三段目に(熊谷陣屋)がある。
皇統を引く敦盛を死なせては成らぬと考えた義経は、「一枝を伐らば一指を剪るべし」
と記した制札を熊谷次郎直実に与え、桜の枝の保護になぞらえて敦盛を守るように命
じる。熊谷は、その制札の謎を解き、一子小次郎直家を身代わり立てる決心をする。
主命の重さの故ばかりではない。彼はもと佐竹次郎といって大内を守護する武士であ
ったが女官相模と密通、不義の罪に問われるところを藤の局に助けられ、恩義を被っ
ていたのである。そのとき相模の身ごもっていたのが小次郎であった。彼は一の谷の
陣で二人をすり替え、須磨の浦で敦盛実は小次郎を討ち果たす。
この芝居は戦争と武士道のむなしさをテーマにした名作である。
散るものを扇にうけて熊谷草 大堀柊花
一の谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)
そよ風に芽吹きそめたる糸柳
麗かや松の影おく心字池
外濠のまだ幼なくて松の花
水鏡して動かざる鷺の春
城垣の隙間に垂れて春の草
春塵のかすかに野外音楽堂
青銅の鶴の嘴より春の水
麗かや松本楼の昼下り
小鳥飼ふ独りの部屋の雛飾り
春雷の慎みふかく鳴り初めぬ
麗かや松の影おく心字池
外濠のまだ幼なくて松の花
水鏡して動かざる鷺の春
城垣の隙間に垂れて春の草
春塵のかすかに野外音楽堂
青銅の鶴の嘴より春の水
麗かや松本楼の昼下り
小鳥飼ふ独りの部屋の雛飾り
春雷の慎みふかく鳴り初めぬ
雛
雛飾りつつふと命惜しきかな 星野立子
「俳諧歳時記」に
五節句の一つである三月三日の節句に、雛人形に種々の調度を添へて飾る遊びであ
る。上代には雛祭はなかった。雛は昔支那で、上巳の祓ひに用いた形代などから始ま
ったものである。日本では天児或いは這子といふ人形ようのものを、子供の三つにな
るまで祓いに用ひ、これに万の凶事を托して祈ったこと等から転化して、藤原時代に
は宮中で雛あそびをされたことが源氏物語・紫式部日記・枕草子等にも見えてゐる。
後三月上巳の節句を雛遊びの期と定めるようになり、室町時代以来、三月三日諸臣
参賀して祝ふやうになった。
とある。
雛人形主体の節句習俗の歴史は案外に新しい。江戸時代初頭に宮廷や幕府で三月
節句に雛人形にかかわる行事があった記録が現れ、やがて寛文年間以降にようやく
雛祭の形が定着したものとみられる。以後の雛祭は工芸品としての雛人形の生成発達
と関連してしだいに華美になり、また都市から農村へと波及していった。
江戸時代初期の雛飾りは平壇・立ち雛の形が主だったらしいが、やがて精巧な土焼
きの衣装人形の出現で華麗になり、重ね壇に内裏雛以下、官女、大臣、五人囃子、仕
丁、雛道具を並べるという形式が固定していき、新生の女児に雛人形を贈る風習も広
まった。
さて、歌舞伎舞踊の舞台機構の一つに「雛段」がある。地方の坐る舞台上の台で、
二段以上のものをいう。緋毛氈をかけてあり、雛人形を飾る壇に見立てた名称で、
主に上に長唄連中、下に囃子方が坐る。舞台後方正面に位置するのが原則で、演奏者
は作品によって色、模様、紋が異なる肩衣を着用することもあり、背景の一部ともな
る。前方下壇は四寸高またな尺高(一尺)、後方上段は高足(二尺八寸)の高さである。
まれに作品によって、背景と調和した色布を用いることもある。例えば松羽目物や
「鏡獅子」「娘道成寺」などの正面出囃子の場合に使用される。
撫で肩にふるる瓔珞享保雛 大堀柊花
天児(あまかつ)
雛飾りつつふと命惜しきかな 星野立子
「俳諧歳時記」に
五節句の一つである三月三日の節句に、雛人形に種々の調度を添へて飾る遊びであ
る。上代には雛祭はなかった。雛は昔支那で、上巳の祓ひに用いた形代などから始ま
ったものである。日本では天児或いは這子といふ人形ようのものを、子供の三つにな
るまで祓いに用ひ、これに万の凶事を托して祈ったこと等から転化して、藤原時代に
は宮中で雛あそびをされたことが源氏物語・紫式部日記・枕草子等にも見えてゐる。
後三月上巳の節句を雛遊びの期と定めるようになり、室町時代以来、三月三日諸臣
参賀して祝ふやうになった。
とある。
雛人形主体の節句習俗の歴史は案外に新しい。江戸時代初頭に宮廷や幕府で三月
節句に雛人形にかかわる行事があった記録が現れ、やがて寛文年間以降にようやく
雛祭の形が定着したものとみられる。以後の雛祭は工芸品としての雛人形の生成発達
と関連してしだいに華美になり、また都市から農村へと波及していった。
江戸時代初期の雛飾りは平壇・立ち雛の形が主だったらしいが、やがて精巧な土焼
きの衣装人形の出現で華麗になり、重ね壇に内裏雛以下、官女、大臣、五人囃子、仕
丁、雛道具を並べるという形式が固定していき、新生の女児に雛人形を贈る風習も広
まった。
さて、歌舞伎舞踊の舞台機構の一つに「雛段」がある。地方の坐る舞台上の台で、
二段以上のものをいう。緋毛氈をかけてあり、雛人形を飾る壇に見立てた名称で、
主に上に長唄連中、下に囃子方が坐る。舞台後方正面に位置するのが原則で、演奏者
は作品によって色、模様、紋が異なる肩衣を着用することもあり、背景の一部ともな
る。前方下壇は四寸高またな尺高(一尺)、後方上段は高足(二尺八寸)の高さである。
まれに作品によって、背景と調和した色布を用いることもある。例えば松羽目物や
「鏡獅子」「娘道成寺」などの正面出囃子の場合に使用される。
撫で肩にふるる瓔珞享保雛 大堀柊花
天児(あまかつ)