俳句
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君子蘭抱いて庭より訪れし 今井つる女
「花の大歳時記」に、
ヒガンバナ科の常緑多年草。南アフリカ喜望峰の原産でわが国には明治初めに渡来したといわれる。観賞用として温室などで栽培され、鉢ものとして出荷される。君子蘭の名の由来は、学名クライウ・ノベルス(高貴なる)にもとづき、クライウ家出身のノーサンバーランド公爵夫人の名に因む。
花茎は高さ四十~五十センチぐらい。先端に緋橙色の細長い筒状花をつける。
とある。
君子蘭はヒガンバナ科の不耐寒性多年草。冬の間は室内や温室で育てる。南アフリカ原産で、一八四五年にヨーロッパに紹介され、日本へは明治末年に渡来した。
ベルギー、ドイツ、オランダなどで品種改良が行われたが、日本でも、葉が幅広で短く、整然と並んで外側に反転するダルマ系や、美しい斑が入る品種が育成されている。
さて、蘭は二万五千種からなる。園芸界では、東洋蘭と洋蘭に分けることがあるが、日本や中国大陸中・南部など主として温帯原産で、日本で古くから栽培されてきたものを東洋蘭、熱帯から亜熱帯原産で、主として欧米で改良され、明治時代に導入された花色の美しいものを洋蘭と呼んでいる。日本の蘭の栽培は江戸時代に流行し、天保時代に頂点に達した。欧米の蘭栽培は中国、日本よりはるかに遅く、十九世紀前半にブラジルからカトレア属、中米からレリア属などの美しい蘭が相次いでイギリスやフランスに導入され、関心を集めた。
蘭の花が観賞栽培される近世以前、蘭は実用品であった。古代のギリシャではハクサンチドリOrchis属、オフリスOphrys属の球根を催淫剤として食用した。Orchisはギリシャ語の睾丸の意味で、薬効は球根が似ることからの連想である。
いささかも花弁ゆるめず君子蘭 大堀柊花
君子蘭(くんしらん)因む(ちなむ)緋橙色(ひとうしょく)睾丸(こうがん)
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ゆく春や魚影をちらと小名木川
若葦に水ゆっくりと流れゆき
潮入りの流れに浮かれゐて海月
潮入りの稚魚の大群夏近し
鞘当てのやうにふれ合ひ恋ボート
翡翠や使ふことなき水車小屋
逢ふたびに気やすくなりて手毬花
幼名を勢至丸とぞ馬酔木咲く
囀のいささか高き北の丸
心中は未遂でありし春の月
花烏賊の肌透きとほるほどの恋
若葦に水ゆっくりと流れゆき
潮入りの流れに浮かれゐて海月
潮入りの稚魚の大群夏近し
鞘当てのやうにふれ合ひ恋ボート
翡翠や使ふことなき水車小屋
逢ふたびに気やすくなりて手毬花
幼名を勢至丸とぞ馬酔木咲く
囀のいささか高き北の丸
心中は未遂でありし春の月
花烏賊の肌透きとほるほどの恋
馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺 水原秋櫻子
「俳諧歳時記」に、
常緑潅木で、ちょっと楊梅の木の感じがある。葉は椎の葉に似てやや細長く、葉のへりに小さな鋸歯がある。十一月頃からもう花ごしらへを始め、仲春・晩春・初夏にかけて、小さな壺の恰好をした白い花穂を垂れる。地味な風雅な花で、近くによると香がする。山野に多く見受けられるが、寺社・庭園・料亭などに観賞用としても植ゑられる。元来馬酔木は有毒植物で、葉は煎じて駆虫剤等に用ひられる。馬酔木といふ名は、馬が食べると昏睡するといふところから来てゐる。
とある。
ツツジ科の常緑低木。アシビ、アセボともいう。「万葉集」に十首詠まれているが、その多くが野外に生えたアセビのことで、当時はまだ庭の花ではなかった。大伴家持の「池水に影さへ見えて咲きにほふあしびの花を袖に扱入れな」など「万葉集」の
安之婢に馬酔木の字をあてるのは、馬がこの葉を食べると足がしびれて動けなくなるためで、アシビおよびアセビは足しびれの意味だといわれている。おそらく大陸から馬を伴った帰化人が、アセビの有毒性に無知であったため、この葉を馬に食べさせてこの難にあい、命名したのであろう。
さて、随筆に「あしびの花」(土田杏村)がある。
馬酔木の花を見ると、大抵の人が少しさびし過ぎると考へるであろう。その色つやも大して立派だとは言ふまい。けれどもそれは馬酔木の古木が本当に咲き盛ってゐるところを見てゐないのである。一丈以上にも伸びた古木が山一面にさき続いてゐるところ、それは実際何とも言へないはでやかなもので、だれでもちょっと、この花叢を馬酔木だとは信じまい。馬酔木の花の美しいのは奈良である。私はこの春用事があって幾度となく奈良へ出かけたが、一箇月の余少しの衰へをも見せないで咲き盛ってゐる馬酔木の花を見ることは、その間の一つの楽しみであった。
花房は涙つぼかも花馬酔木 大堀 柊花
馬酔木の花(あしびのはな)楊梅(やまもも)大伴家持(おおとものやかもち)
扱入(こき)安之婢(あしび)
「俳諧歳時記」に、
常緑潅木で、ちょっと楊梅の木の感じがある。葉は椎の葉に似てやや細長く、葉のへりに小さな鋸歯がある。十一月頃からもう花ごしらへを始め、仲春・晩春・初夏にかけて、小さな壺の恰好をした白い花穂を垂れる。地味な風雅な花で、近くによると香がする。山野に多く見受けられるが、寺社・庭園・料亭などに観賞用としても植ゑられる。元来馬酔木は有毒植物で、葉は煎じて駆虫剤等に用ひられる。馬酔木といふ名は、馬が食べると昏睡するといふところから来てゐる。
とある。
ツツジ科の常緑低木。アシビ、アセボともいう。「万葉集」に十首詠まれているが、その多くが野外に生えたアセビのことで、当時はまだ庭の花ではなかった。大伴家持の「池水に影さへ見えて咲きにほふあしびの花を袖に扱入れな」など「万葉集」の
安之婢に馬酔木の字をあてるのは、馬がこの葉を食べると足がしびれて動けなくなるためで、アシビおよびアセビは足しびれの意味だといわれている。おそらく大陸から馬を伴った帰化人が、アセビの有毒性に無知であったため、この葉を馬に食べさせてこの難にあい、命名したのであろう。
さて、随筆に「あしびの花」(土田杏村)がある。
馬酔木の花を見ると、大抵の人が少しさびし過ぎると考へるであろう。その色つやも大して立派だとは言ふまい。けれどもそれは馬酔木の古木が本当に咲き盛ってゐるところを見てゐないのである。一丈以上にも伸びた古木が山一面にさき続いてゐるところ、それは実際何とも言へないはでやかなもので、だれでもちょっと、この花叢を馬酔木だとは信じまい。馬酔木の花の美しいのは奈良である。私はこの春用事があって幾度となく奈良へ出かけたが、一箇月の余少しの衰へをも見せないで咲き盛ってゐる馬酔木の花を見ることは、その間の一つの楽しみであった。
花房は涙つぼかも花馬酔木 大堀 柊花
馬酔木の花(あしびのはな)楊梅(やまもも)大伴家持(おおとものやかもち)
扱入(こき)安之婢(あしび)
昃れば愁ひの色に初桜
小彼岸の一輪がほど蘆花旧居
山茱萸の黄を鏤めて青き空
冴返る蘆花の旧居の長廊下
切株のまだ萩根分せぬらしき
花こぶし天使の羽に似て非なり
繙きし絵巻のやうな春の山
近づきていよいよ赤き木瓜の花
嘴をこぼれやすくて春の土
鳥雲にわが淋しさを人知らず
小彼岸の一輪がほど蘆花旧居
山茱萸の黄を鏤めて青き空
冴返る蘆花の旧居の長廊下
切株のまだ萩根分せぬらしき
花こぶし天使の羽に似て非なり
繙きし絵巻のやうな春の山
近づきていよいよ赤き木瓜の花
嘴をこぼれやすくて春の土
鳥雲にわが淋しさを人知らず
あち歩きこち歩きして萩根分 高濱 虚子
「ホトトギス新歳時記」に、
春になって萩の芽が出ると、古株を掘り起こして、根分けし、移植する。木の勢いを強め、また株を殖やすためである。
とある。
「秋萩」とよばれるように、秋の代表的な景物として、早く「万葉集」から歌に数多く詠まれ、秋の七草の一つである。「さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に 玉と見るまで置ける白露」(巻八・大伴家持)、「雁は来ぬ萩は散りぬとさを鹿の 鳴くなる声もうらぶれにけり」(巻十)というように、「鹿」「雁」「露」とともに詠まれることが多い。「古今集」でも「万葉集」以来の類型が固定し、また、「宮城野のもとあらの小萩露を重み 風を待つごと君をこそ待て」(恋四・よみ人しらず)により、「宮城野」の景物となり、「源氏物語」「桐壺」の「小萩がもと」の段などにみられる。
さて、狂言に「萩大名」がある。
遊山を思い立った大名(シテ)に、太郎冠者は知人の庭の萩見物を勧める。その庭では客が和歌を詠むことが例になっている。そこで冠者は、無風流な大名に、聞き覚えの「七重八重九重とこそ思ひしに十重咲き出づる萩の花かな」という歌を教えようとする。しかし大名が覚えられないというので、「七重八重・・・」の部分は扇の骨の本数で示し、末句の「萩の花かな」は臑脛を示して合図することに決めて出かける。ところが、庭に着いた大名は梅の木や庭石を見て失言を重ねたうえに、いざ和歌を詠む段になって「七本八本」などと間違える始末。あきれた冠者が姿を隠してしまうと、慌てた大名は末句が思い出せず、苦しまぎれに「太郎冠者が向う脛」と答えて面目を失う。
北條の寺の白萩根分かな 大堀 柊花
萩根分(はぎねわけ)大友家持(おおとものやかもち)宮城野みやぎの)
萩大名(はぎだいみょう)臑脛(すねはぎ)
「ホトトギス新歳時記」に、
春になって萩の芽が出ると、古株を掘り起こして、根分けし、移植する。木の勢いを強め、また株を殖やすためである。
とある。
「秋萩」とよばれるように、秋の代表的な景物として、早く「万葉集」から歌に数多く詠まれ、秋の七草の一つである。「さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に 玉と見るまで置ける白露」(巻八・大伴家持)、「雁は来ぬ萩は散りぬとさを鹿の 鳴くなる声もうらぶれにけり」(巻十)というように、「鹿」「雁」「露」とともに詠まれることが多い。「古今集」でも「万葉集」以来の類型が固定し、また、「宮城野のもとあらの小萩露を重み 風を待つごと君をこそ待て」(恋四・よみ人しらず)により、「宮城野」の景物となり、「源氏物語」「桐壺」の「小萩がもと」の段などにみられる。
さて、狂言に「萩大名」がある。
遊山を思い立った大名(シテ)に、太郎冠者は知人の庭の萩見物を勧める。その庭では客が和歌を詠むことが例になっている。そこで冠者は、無風流な大名に、聞き覚えの「七重八重九重とこそ思ひしに十重咲き出づる萩の花かな」という歌を教えようとする。しかし大名が覚えられないというので、「七重八重・・・」の部分は扇の骨の本数で示し、末句の「萩の花かな」は臑脛を示して合図することに決めて出かける。ところが、庭に着いた大名は梅の木や庭石を見て失言を重ねたうえに、いざ和歌を詠む段になって「七本八本」などと間違える始末。あきれた冠者が姿を隠してしまうと、慌てた大名は末句が思い出せず、苦しまぎれに「太郎冠者が向う脛」と答えて面目を失う。
北條の寺の白萩根分かな 大堀 柊花
萩根分(はぎねわけ)大友家持(おおとものやかもち)宮城野みやぎの)
萩大名(はぎだいみょう)臑脛(すねはぎ)