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䔥条と宗谷を濡らす春霙
南極を恋ふかに宗谷春浅し
船室の低き天井寒き春
船窓はいづれもまろし春灯
冴返る船の厨の皿小鉢
船首よりのぞむ東京湾の春
係留の宗谷を下りて青き踏む
すかんぽや約束の時とうに過ぎ
このごろは涙もろくて目刺焼く
壁の絵は南フランス春暖炉
南極を恋ふかに宗谷春浅し
船室の低き天井寒き春
船窓はいづれもまろし春灯
冴返る船の厨の皿小鉢
船首よりのぞむ東京湾の春
係留の宗谷を下りて青き踏む
すかんぽや約束の時とうに過ぎ
このごろは涙もろくて目刺焼く
壁の絵は南フランス春暖炉
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酸葉
すかんぽをかんでまぶしき雲とあり 吉岡禅寺洞
「花の大歳時記」に、
タデ科の多年草。山野のどこにでも自生、ことに田畑の畦や路傍に多く見られる。和名はスイバ。ふつうスカンポの名で親しまれ、漢名は酸模、古名をスシという。茎は紫紅色であり、その茎を抱くように長い楕円形の葉が互生する。若い茎や葉は食べられるが、そのスイバの名のように酸っぱい。雌雄異株であり、四、五月ごろ茎の上部の分かれた小枝に淡緑色や紅色を帯びた小花を穂状につける。ギシギシとよく間違われるが、葉のもとの方が矢の根形をしているところを見れば区別できる。昔は酢味噌和えや塩漬けにして食用としていた。
とある。
酸葉の嫩葉は子供らがすいすいと言ってとって食べる。また、すいば漬けといって塩漬にもする。尚この草の液は疥癬・痔血・吐血・赤痢等に効があるという。
スイバとギシギシは、よく似ているが、ギシギシの方が葉がまっ青で背も高くいっぱいつける。スイバの方は、紅みがかり一体にやせている。
さて、随筆に「すかんぽ」(木下杢太郎)がある。
字引で見ると、すかんぽの和名は須之であると言う。東京ではすかんぽと言う。われわれの郷里ではととぐさと呼んだ。日本植物図鑑ではすいばと言うのが普通の名称として認められている。
震災前、即ち改築前の大学の庭には此草が毎年繁茂して、五月なかばには紅緑の粒を雑えた可憐な花の穂が夕映のくさむらに目立った。学生として僕ははやく此草の存在に注意した。其花の茎とたんぽぽの冠毛の白い硝子玉とを排して作ったスケッチは斎藤茂吉君の旧い歌集の挿絵として用ゐられた。
此植物は僕には旧いなじみである。まだ小学校に上って間もない時分、年上の悪少にそそのかされて、春の末、荒野の岡に行った。「紙に包んでな、塩を持って行くのだよ。」台所の戸棚をあけて、塩の壺から塩を出して紙に包むと云ふ事が、この時ばかりはとても難渋な為業であった。
すかんぽや竿をたくみに潮来舟 大堀 柊花
酸葉(すいば)酸模(さんぼ)疥癬(かいせん)須之(すし)
すかんぽをかんでまぶしき雲とあり 吉岡禅寺洞
「花の大歳時記」に、
タデ科の多年草。山野のどこにでも自生、ことに田畑の畦や路傍に多く見られる。和名はスイバ。ふつうスカンポの名で親しまれ、漢名は酸模、古名をスシという。茎は紫紅色であり、その茎を抱くように長い楕円形の葉が互生する。若い茎や葉は食べられるが、そのスイバの名のように酸っぱい。雌雄異株であり、四、五月ごろ茎の上部の分かれた小枝に淡緑色や紅色を帯びた小花を穂状につける。ギシギシとよく間違われるが、葉のもとの方が矢の根形をしているところを見れば区別できる。昔は酢味噌和えや塩漬けにして食用としていた。
とある。
酸葉の嫩葉は子供らがすいすいと言ってとって食べる。また、すいば漬けといって塩漬にもする。尚この草の液は疥癬・痔血・吐血・赤痢等に効があるという。
スイバとギシギシは、よく似ているが、ギシギシの方が葉がまっ青で背も高くいっぱいつける。スイバの方は、紅みがかり一体にやせている。
さて、随筆に「すかんぽ」(木下杢太郎)がある。
字引で見ると、すかんぽの和名は須之であると言う。東京ではすかんぽと言う。われわれの郷里ではととぐさと呼んだ。日本植物図鑑ではすいばと言うのが普通の名称として認められている。
震災前、即ち改築前の大学の庭には此草が毎年繁茂して、五月なかばには紅緑の粒を雑えた可憐な花の穂が夕映のくさむらに目立った。学生として僕ははやく此草の存在に注意した。其花の茎とたんぽぽの冠毛の白い硝子玉とを排して作ったスケッチは斎藤茂吉君の旧い歌集の挿絵として用ゐられた。
此植物は僕には旧いなじみである。まだ小学校に上って間もない時分、年上の悪少にそそのかされて、春の末、荒野の岡に行った。「紙に包んでな、塩を持って行くのだよ。」台所の戸棚をあけて、塩の壺から塩を出して紙に包むと云ふ事が、この時ばかりはとても難渋な為業であった。
すかんぽや竿をたくみに潮来舟 大堀 柊花
酸葉(すいば)酸模(さんぼ)疥癬(かいせん)須之(すし)
川ひとつ越えて千本桜見に
千本の土手の桜と人の数
遠目にも鷺の漁れる初桜
おほどかに水流れゆき蘆芽ぐむ
千本の桜を土手にあばれ川
千本の朝な夕なの桜かな
聖橋渡りて森へ孔子祭
心なほ定まらずして忘れ霜
かばかりの水に生まれて蛙の子
春闌けて志すことなほありぬ
千本の土手の桜と人の数
遠目にも鷺の漁れる初桜
おほどかに水流れゆき蘆芽ぐむ
千本の桜を土手にあばれ川
千本の朝な夕なの桜かな
聖橋渡りて森へ孔子祭
心なほ定まらずして忘れ霜
かばかりの水に生まれて蛙の子
春闌けて志すことなほありぬ
釈奠
釈奠や誰が注古りし手沢本 日野 草城
「年中行事辞典」に、
春・秋に孔子をまつる行事。陰暦二月・八月の上の丁の日に行う。釈奠とは、釈もも奠も「置く」という意味の字で、供え物を神前にささげ置くことをいう。すなわち先聖先師の祭の総称、またはその祭の仕方をいった語であるが、後漢の世に民帝が孔子の宅を訪れて、孔子と七十二弟子を祭って以来、孔子を祭る大典を釈奠(釈典)というようになった。釈奠は、うきくさ・しろよもぎなどの植物を供えたから、釈菜とも呼ばれる。わが国では文武天皇が大宝元年二月大学寮に幸して、初めて釈奠を行われた。宮中では大学寮に孔子と顔淵はじめ十哲の肖像をかけて博士たちが講義を行い、担当の公卿以下が拝を行い、宴を設けて、席上経義を論議し詩を講じた。
とある。
この行事は皇室の衰微とともにすたれ、室町ごろは胙(ひもろぎ)を奉ることも行われなくなった。江戸時代初期には佐賀県多久市の孔子廟のみが釈奠を行っていたが、維新後廃絶した。その後これを復興し、湯島聖廟で行うようになり、明治後も行われたが、現在は盛んでない。多久の釈奠は四月十日・十月十四日で、式典は孔子に十哲を配祀し、祭文をよみ、献詩を朗誦し、奏楽・礼拝など、最古式をもって行われる。
さて、孔子は中国古代の思想家。儒教の祖。名は丘。字は仲尼。孔子の「子」は尊称。魯の国(山東省)の人。魯の下級武士叔梁紇と、その内縁の妻徴在との間に生まれた。父は大力で斉との戦闘で武勲をあげている。孔子三歳のとき父が没し、倉庫番や牧場の飼育係をしながら学問に励んだので定まった師匠はない。当時の天下は下剋上の風が瀰漫していた。
五十四歳、魯の大司寇(司法大臣)となるが、自分の理想の政治を実施してくれる君主にはめぐり合えなかった。以後は政界に望みを絶ち、弟子の教育に専念する。弟子の数三千人。うち「六芸」(礼、楽、射、御、書、数)に通じたもの七十二人。
孔子は六芸のすべてにかかわったとされる。孔子の死後、その弟子または再伝の弟子が孔子の言行録を編んだ。「論語」二十篇がそれで、孔子の思想を知るための唯一の信用すべき資料である。
釈奠の磴にこぼるる鳥の声 大堀 柊花
猪牙舟は櫂を寝かせて春浅し
どぶ板のことこと鳴りて春の昼
恋猫の声のしさうな路地のうち
お邪魔しますと入りたる春障子
所在なく灰を均して春火桶
誰もゐぬお休み処花いまだ
材木の並ぶ街並み春動く
蛇穴を出て秋成の世なりけり
逢ふたびに心ときめき水温む
草の芽の命わが身の命かな
どぶ板のことこと鳴りて春の昼
恋猫の声のしさうな路地のうち
お邪魔しますと入りたる春障子
所在なく灰を均して春火桶
誰もゐぬお休み処花いまだ
材木の並ぶ街並み春動く
蛇穴を出て秋成の世なりけり
逢ふたびに心ときめき水温む
草の芽の命わが身の命かな