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絨毯の紅きにこぼれ鬼の豆
水菜引くなほ覚めやらぬ東山
水音に紅殻ぬいで猫柳
かたかごは恥らふ花か俯きて
瞬けばまたたき返し犬ふぐり
独り居の部屋に鍵かけ桜草
彫像のまなこ虚ろにヒヤシンス
おいらくの眩しきバレンタインの日
筆硯をかたへに書かず兼好忌
早春の恋めくものに鳥けもの
盆梅の蕾ふくらむ巫女溜り
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三椏のはや実となんぬ芝の鐘
古墳へは坂がかりなり著莪の花
高張の昼を灯して梅若葉
八重ざくら満を持すかに東照宮
やぶさめの噂ちらほら遅桜
寺町へつづく花町荷風の忌
パンジーの泣き出しさうな雨となる
潤みしは涙のせいか春の星
おっとりとひらきて淋し桜漬
誰もゐぬわが家へ帰る春の暮
卵置く三色菫の花の中  高野 素十

   「俳諧歳時記」に、
   菫の一種であるが、三色菫にも色々の種類がある。花壇用大輪混同種、大輪バクノット・ジャイアント等がそのおもなるもので、、色は紫・黄・白ぼかし等が配合されてゐる。三色菫といふのは、紫黄白の三色を交へた花が咲くからである。花が美しく可憐で、育て易いので、観賞用として汎く愛育されてゐる。別名遊蝶花又胡蝶花と云ふのは、花の状があたかも蝶のやうだからと云ふ。
  とある。
   スミレ科の半耐寒性一年草。和名をサンシキスミレと呼ぶが、これは学名ビオラ・トリコロールを訳したもの。日本ではこの系統のものをすべてパンジーの名でよんでいる。
   シェークスピアは「真夏の夜の夢」で、パンジーを媚薬として使い、眠っている間にその花汁をまぶたに塗られると、目覚めたとき、最初に見たものに恋をするという喜劇を描いた。パンジーの名はフランス語のパンセに由来するが、それはパンジーのつぼみが下を向き、頭を垂れて物思う姿を思わせるからである。

   さて、イギリスの随筆家チャールズ・ラムと姉メアリとの共同作品に「シェークスピア物語」(一八〇六)がある。
   子供が古典に近づく助けにしたい希望から、シェークスピアの劇作品中二十編を選び、喜劇はメアリが、悲劇はチャールズが、子供向きに再話した。複雑な構成の原作を簡潔にし、原作の精神をとらえ、せりふのことばをそのまま生かそうとした意図が成功して、児童文学の古典の一つとされている。収録された作品は「あらし」「真夏の夜の夢」「冬の夜話」「お気に召すまま」「ベロナの二紳士」「ベニスの商人」「リア王」「マクベス」「じゃじゃ馬馴らし」「十二夜」「ロメオとジュリエット」「ハムレット」「オセロ」「から騒ぎ」「シンベリン」「終りよければすべてよし」「まちがいの喜劇」「しっぺがえし」「アセンズのタイモン」「ペリクリーズ」である。

   パンジーに物思ひぐせいつよりか  大堀 柊花

  三色菫(さんしきすみれ)汎く(ひろく)
まだ空の色には染まず初桜
血洗ひの池にも春のあめんぼう
まなびやの馬酔木の鈴の幼かり
鳥の声なほととのはぬ芽吹き山
白馬より白くて馬場の花辛夷
仰向けに落ちて地の花紅椿
垣結うて女むすびもありしかな
ものの芽をうながすほどの雨もよひ
芽吹かむとして総毛立つ柳かな
世を捨つる心さらさら春炬燵
   それとなく話はづして春炬燵  星野立子

   「俳諧歳時記」に、
   春になっても寒さはなかなか去らない。二月・三月の大半は寒い日がちである。そのため春になっても炬燵の間は繁盛する。置炬燵も仕舞はれない。庭の有様など何時となく粛寂の気分から放れてゐるやうにも眺められるが、家の内ではまだ炬燵が必要である。さういふのが春の炬燵である。
  とある。
   こたつの起源は明らかではないが、室町時代にいろりに櫓をかけてこたつにしたのが始まりで、「こたつ」の語は「火榻子」の宋音に基づくとされている。当時の櫓は低いもので、現在の櫓の高さになったのは江戸時代からである。高い櫓のこたつは、とくに高ごたつなどといわれ、置きごたつの一種である。なお、こたつは家庭燃料の乏しい都市から普及していった。

   さて、俳話に「春の炬燵」(松本たかし ホトトギス 昭和九)がある。
   少し雑談をさせていただきたいと思ふ。中途半端ではあるが、私は能役者の修業をしたことがあるのでそんなところから話を始めてゆかうかと考ふ。勿論、能楽と俳諧とは種類の異なる芸術だから¦一方は殆ど感覚的な表現を専らとするものであり、他方は多かれ少なかれ生活感情に基づく構成をとるものである以上、強いてこの両者に関連をもたせやうとすると、こぢつけがましい可笑しなことになるに相違ない。併しまんざら無縁のものと言捨ててしまふほどでもあるまい。能がその一挙手一投足に対して厳格な規約の下にあり、これは全く縛られてゐると云ってもいい¦俳句が季題を約束し、五七五、十七音といふ定型を固守し、そして両者とも長い伝統を持ち、飽くまでも東洋的な土壌に芽生へ、発足して来た点など、一脈共通した芸能の上にあるとも考へられなくはない。併し何にせよ能は能、俳句は俳句である。(略)
   能と俳句の共通点を挙げ、しかし、なかなか本音は吐けず、真物は出かしにくい、と結んである。

   零落の身を横たへて春炬燵  大堀 柊花

  火榻子(かとうし)宋音(そうおん)考ふ(おもう)真物(ほんもの)
   
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