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   韮の花

    韮の花ひとかたまりや月の下  山口 青邨

   「花の大歳時記」に、
   ユリ科ネギ属の多年草。インド・パキスタンから東南アジア・中国・日本に分布する。八月から九月にかけ、三〇~四〇センチにも達する花茎を上げ、散形花序の白い小花を多数つけ、九月末に黒い種子をつける。ノビル・ニンニク・ネギ・ラッキョウなどと同属で臭気がつよく、食べると精力がつくので、中国では一括して葷と呼ばれ「葷酒山門に入るを許さず」と禅僧に食用が禁じられた。
  とある。
   中国では三千年の歴史がある。周族の居住であった豳の祭事には、、ヒツジとともにニラが供えられた。ニラは本来、韭と書かれ、呉音でク、漢音でキョウ、現代中国音ではチョウと発音されるが、いずれも久と同音である。ニラは多年生の野菜で、それが「久しい」と結びついた。中国では古代から主要な野菜で、「史記」の貨殖列伝に「千畦薑非。此其人皆與千戸候等」(千畦のショウガとニラは千の領主と等しい)の記述がある。

   さて、「葷酒山門に入るを許さず」の山門は寺院の門で、解脱門ともいう。
   歌舞伎の時代物に、「楼門五三桐」(並木五瓶 安永七初)がある。
   明の臣宋蘇卿は真柴久吉の朝鮮進攻に怒り、一子宋蘇友を故郷に残し日本へ渡り久吉の養子久次につかえた。蘇卿は久吉の跡目相続の争いにつけこみ日本を横領する肚だったが、久吉はそれを見抜き、蘇卿は切腹した。そのとき、唐渡りの絵から鷹が抜け出し、蘇卿の遺書を爪にかけ飛び立った。南禅寺の山門に住む大盗石川五右衛門は実は蘇卿の子の蘇友で、父の跡を追って日本へ渡り武智光秀に育てられた。しかし光秀は久吉に敗れ、盗人になったのである。五右衛門は折りしも飛んできた白鷹の爪にあった遺書を読み、父と光秀の仇の久吉に復讐を誓う。
   浅黄幕を切って落とすと、あたり一面の桜、そこへ楼門がせり上がるという、大スペクタルともいうべき舞台、まさに「絶景かな 絶景かな」

   夕暮れのむらさきにほふ韮の花  大堀 柊花
  
  韮の花(にらのはな)葷(くん)千畦(せんのあぜ)楼門五三桐(さんもんごさんのきり)明(みん)宋蘇卿(そうそけい)肚(はら)豳(ひん)薑(はじかみ)
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百軒に余る古書店天高し
万太郎荷風横積み古書の秋
蜘蛛の這ふ古書の背表紙うそ寒し
巻子本おほかた伝記萩日和
店先の古書をはたいて暮の秋
火の恋し袖珍本は玻璃ぬちに
天井へ古書のそびゆる書肆の秋
壺の花こぼるることも身に沁みて
山の端に夕日まみれの椋の群
末枯を映して水の急がざり

   椋鳥

    椋鳥や分れて戻る二羽三羽  鈴木 花蓑

   「俳諧歳時記」に、
   鳴禽類に属する鳥。椋の実の熟するころ群れ来り、又黒く熟したる椋の実を好んで食するより其名あり。形小鳩ぐらゐ、尾はやや短く、嘴は真直にて尖り、脚は強壮にして地上を軽快に歩行す。羽毛は一般に灰黒色にて多少白味を帯ぶ。頭上に白羽を混ず。白頭翁と呼ぶ異名は之より起る。大樹の洞穴などに巣を営み、好んで群れをなして往来す。
  とある。
   広義には鳥鋼スズメ目ムクドリ科に属する鳥の総称で、狭義にはそのうちの一種をさす。全長約二四センチ。背面は黒褐色、下面は淡色、顔には不規則な白斑があるが、橙黄色の嘴と腰の白色が、短い尾とともに顕著な特徴となっている。日本、樺太、アムール地方、モンゴル、中国北部、朝鮮半島などで繁殖し、冬季は中国南部にまで至るものもある。日本では南千島、北海道、本州、四国、九州で繁殖し、大部分は留鳥である。非繁殖期には大群をなす。ことに数千羽、一万羽を数える集団ねぐらをみることもまれでない。日没、夕日を背にねぐらに集る大集団は実にみごとである。

   さて、随筆に「柿と椋鳥」(立原正秋)がある。
   曉方、仕事を終えて床につこうとする頃に野鳥が庭にやってくる。柿を最初に啄みだしたのは椋鳥だった。ずいぶん以前から椋鳥は見なれているが、曉方の椋鳥ははじめてであった。彼女達はむれをなして飛来してくるのだが、曉方の彼女達は、いずこからともなく中空を飛んできて、そこで二羽三羽という風に散って行く。めいめい別行動をとるのである。この柿の木に飛んできたのは三羽だった。一羽は山桜の枝、一羽はもみじの枝に、一羽は楢の枝にとまり、まず山桜の一羽が枝をはなれ柿の木にとんで行った。そして柿を啄んでいるうち、もみじの一羽が柿の枝にとびうつり、山桜の方は柿をはなれ、やがて楢の方が柿にうつり、同時にもみじの方が空に舞いあがり、やがて三羽そろって再び中空に飛び立った。おかしな連中だ、と私は呟いた。

   落陽の朱に染まりて椋の群  大堀 柊花

  椋鳥(むくどり)橙黄(とうこう)楢(なら)
仲秋の日のなほ高き百花苑
撓ひては人を誘ひをみなへし
葉隠れに香りを高く葛の花
ぼんぼりに触れては萩の走り咲き
トンネルの萩の洩れ日のかく暗き
ふたたびは逢ふことのなき萩の径
つるむこと忘れて秋のあめんぼう
秋蝶に誘はれゆきてもとの径
芳年の碑にほどけ初め花芒
捕れたての蝦夷の秋刀魚を火炙りに



    秋刀魚食ぶ卓袱台の脚落着かず  石倉啓補

   「たべもの語源辞典」に、
   秋刀魚は三馬とも書かれる。上方ではサイラという。江戸では明和(一七六四~七二)のころまではあま塩のサンマはあまり売られなかった。安永(一七七二~八一)になると「安くて長きはさんまなり」という壁書があるくらい流行してきた。下々の者が食べたのだが、寛政(一七八九~一八〇一)になると中流階層以上にも好む者が出てきた。「サンマがでるとアンマが引込む」といわれるほど健康に良いたべものとされるようになる。サンマの名は、体が狭長であるところからサマナ(狭真魚)の音便である、という説もある。
  とある。
   サンマは硬骨魚鋼ダツ目サンマ科に属する海水魚。関西地方ではサイラ、サヨリ、三重県ではカドという。太平洋の寒帯南部から亜熱帯にかけて分布し、日本近海では千島列島から沖縄諸島付近まで回遊する。
   代表的な大衆魚であるが、いつごろから食用とされたかは不明である。「和漢三才図会」には、サイラの名で載り、魚中の下級品であると記されている。

   さて、落語のおなじみに「目黒のさんま」がある。
   ある大名が、家来を十二、三人連れて、秋の野駆けに中目黒へ出かけた。昼どきで腹がへったとき、百姓家で焼くサンマのにおいをかいで食べたくなり、百姓に分けてもらって「うまいうまい」と、五、六匹食べた。その後ときどきサンマの味を思い出しては食べたがっていたが、ある日親戚へよばれて、なにかお好みの料理をといわれ、サンマを注文した。親戚ではびっくりして、サンマの上等のを取り寄せ、むしてすっかり脂肪を抜いたのを出した。殿様食べてみたがうまくない。「これはなんじゃ」「ご注文のサンマでござります」「ふうん、いずれから取り寄せた」「日本橋魚河岸にござります」「あ、それでいかん。サンマは目黒にかぎる」

    焼網に抜身のやうな秋刀魚かな  大堀柊花

  秋刀魚(さんま)
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